プロレスを引退した当時、デスマッチのパイオニアは孤独だった。けれど、今は違う。ステーキを求めてやってくる客がいる。22年間、店を守り続ける松永光弘さんの強さと「ミスターデンジャー」の求心力とは。
高さ6mはあろう、後楽園ホール2階バルコニーからの狂気のダイブ。風呂なしアパートに住んでいたインディ団体の前座レスラーは、一夜にしてスターダムに上り詰めた。だが、自ら切り拓いたデスマッチのリングに、イキのいい若手選手たちが参戦。追われる立場になった松永光弘さんは所属団体との軋轢もあり、プロレスを辞めて新たな道に進むと決めた。それがステーキ店の開業だった。
東京は江戸川区の平井にある「ステーキの志摩」。以前からここのステーキが好きで、何度も通っていた。とにかくうまい。しかもリーズナブル。こんなに安くておいしいステーキはない。自分もこんな店をやりたい。そう思い、修業を直談判。快諾を得た。
当時29歳。料理の経験はない。でも本気だった。プロレスの栄光を捨てて早く仕事を覚え、1年で店を出したい。その心意気を示すためにトイレをピカピカに掃除し、スタッフが出勤する前に、床をすべてワックスがけした。「松永光弘が働いている」とプロレスファンに知られるのは嫌なので、金髪を黒く戻し、髭も剃った。修業にすべてを懸ける気持ちを剥き出しにして、3ヶ月間、必死で働いた。
修業中に別のプロレス団体から熱烈なオファーがあった。愛してやまないデスマッチ。松永さんは引退を思い直し、プロレスとステーキ店の二足の草鞋を履くことに。だが、甘えは一切なかった。巡業の合間であろうと厨房に立ち、寝る間を惜しんで修業に勤しんだ。そして1997年、「ミスターデンジャー」を立ち上げた。
「名前でやっている」と思われたくなかった。デスマッチレスラーとしてではなく、経営者であり店長として、絶対に「ミスターデンジャー」を繁盛させる。そんな意地もあり、プロレス雑誌に店の情報を出すことはしなかった。
「両立は並の苦労ではありませんでした。プロレスでいい試合をしたら、数日間ぐらいは余韻に浸っていたい。でも自分の場合、試合が終わったらすぐさま店で仕事。ファイヤーデスマッチの翌日に朝から仕込み、なんて当たり前。日曜日の昼に後楽園ホールで裸足画鋲デスマッチを戦って、それを見に来たお客さんが帰りに店に寄ったら自分が厨房に立っていて驚いた、なんてこともありました」
リーズナブルでうまい、ほかの店では食べることができないステーキを出す。松永さんはそのことを徹底的に考え、仕入れや保存、肉の味付け方法など、研究をひたすら重ねた。オープン当初は“ヒレ”や“サーロイン”を焼いていたが、牛の“サガリ”を使った“デンジャーステーキ”にメニューを絞り込んだことには、はっきりとした理由があった。
“サガリ”とは、“ハラミ”つまり横隔膜の一部分だ。別名は“ハンギングテンダー”。味は抜群。“サーロイン”や“ヒレ”よりも安価だが、たくさん付いた筋や脂を取り除くには技術と、何より体力が欠かせない。
絶大なアドバンテージがあった。何せプロレスラーである。ベテラン肉職人が1日20㎏しかさばけないところを、松永さんはスピーディかつ丁寧に30㎏さばく。うまいステーキにするためには工夫と労力を惜しまない。それが信条だ。
ほかの店でも食べられるものではダメ。考え抜いたオリジナルの“デンジャーステーキ”を食べてもらいたい。誰もやっていないことを追求する姿勢は、松永さんのプロレス人生と通じる。
その後も松永さんは、「ミスターデンジャー」の仕事とデスマッチを続けた。そして2009年に同級生の齋藤彰俊選手と戦い、引退。
「引退試合は私にとって、人生最悪の日。なぜなら、ついにプロレスラーではなくなってしまったから。すぐに後悔の念に襲われ、辞めた翌日から、寝ても覚めても頭の中はプロレス。1年ぐらいは、どうやって復帰しようかと考えてばかりでした」
だが、松永さんは絶対に復帰しなかった。一度引退し、普通の仕事に就こうと思って失敗。結局リングに戻る。そんな、よくいるレスラーのかっこ悪さが嫌だったからだ。
その後、BSE騒動やフランチャイズ展開のトラブルなど紆余曲折を乗り越え、「ミスターデンジャー」は繁盛店へと成長していった。しかしその一方で、松永さんはプロレスへの未練を引きずり続けた。
“自分はもうファンに忘れられている。それどころか今のファンは、自分が人気があった頃を知ってすらいないじゃないか”
ネガティブな気分に襲われ、松永さんは抜け殻のようになっていく。気づけば、店に専念して10年。リスキーな投資に手を出したこともあった。さらには男性更年期障害も出て、メンタルは底だった。
だが、松永さんは立ち直る。きっかけは今年のことだ。ユニークな自作ギターを使った弾き語りで「R‐1ぐらんぷり2019 アマチュア動画部門」にエントリー。見事グランプリに輝いたのだ。もともと音楽が好きで、店で時々ライブをしていたことはコアなファンにこそ知られていたが、この快挙で再びスポットライトを浴びることになる。そして時を同じくするように、体も心も調子が上向いていった。
思えば松永さんがすることは、常にオリジナリティにあふれていた。それは、批判の対象にもなる。たとえばプロレスのスタイルはほぼ自己流。自らアイデアを出し、体を張って戦った過激なデスマッチの数々は「あんなのはプロレスじゃない」と揶揄された。だから、プロレスで賞を獲ったことは一度もない。
それがどうだ。
今や葛西純、伊東竜二、アブドーラ小林といった後輩デスマッチレスラーたちには根強いファンがつき、葛西対伊東の「カミソリ十字架ボードデスマッチ」は、プロレス大賞の年間最高試合賞を獲得。松永さんが切り拓いたけもの道は、太く、しっかりと伸びた一本道となったのだ。
デスマッチのパイオニアはずっと孤独だった。だが今は違う。22年守ってきた店と大好きな音楽がある。そして、お腹をすかせて“デンジャーステーキ”を食べに来る、大切なお客さんたちがいる。
「最近は肉好きやプロレスファンに加えて、R‐1を見た人もお店に来てくれます。やっと、いろいろなことを楽しいと思えるようになってきた。相変わらず店の経営は大変だし、肉の仕込みは体にくる。でも、ここがあるからこそ、さまざまな出会いが生まれる。引退して10年が経った今、実感する毎日です」
松永さんは今日も東京イーストサイドのちょっとさびれた下町でステーキを焼き、時にはギターを弾きながら歌う。その頭の中ではきっと、誰もやったことのない過激で奇想天外な次のたくらみが、ひっそりと温められているに違いない。
(了)
文:ベルナルド・マエダ 写真:井賀孝