オープンして22年。松永光弘さんは身を削りながら店を続けてきた。プロレスもステーキも本気だから絶対に手を抜かない。その矜持が「ミスターデンジャー」のうまさの理由なのだ。
墨田区の下町で、多くの人に愛される「デンジャーステーキ」。使う肉は、健康な牛一頭から2㎏しか取れない“サガリ”。牛の横隔膜の肋骨側についた厚い部分のことだ。産地について特にこだわりはないが、アメリカ、カナダ、オーストラリアがほとんどだという。
仕込みは肉そうじ、つまりよけいな筋スジや脂身を取る作業から始まる。かつて修業時代に、泣きながら覚えた作業だ。柔らかくて弾力のある肉塊に包丁を入れ、筋スジや脂身だけを丁寧に取り除くのは簡単そうに見えて、実に難しい。
肉そうじが終わるとスジ切り。ジャカードというスジ切り器で繊維を切っていく。食感を大きく左右する作業だが、慣れない人がすると肉がボロボロになってしまう。
「どちらも別に珍しい作業じゃない。どこのステーキ店だってやっていることですが、うちほど徹底的にやっている店は少ないと思います。これを1日150~200人分やるのだから、かなりの重労働。正直、体にきます。でも、ここで手を抜いたら終わりです」
毎日毎日、肉を焼き続ける松永さんの靴には衝撃を吸収するインソール。腰と膝にはサポートバンド。首と足首には痛み止めのネックレスとアンクレット。もはや満身創痍だ。体中が痛むのは歴戦のダメージだけでなく、今の重労働の影響も大きい。
店を立ち上げて22年。身を削ってどうにか続けてきた。そんな松永さんを見て「あいつはプロレスの傍ら、上手いことやりやがった」とやっかむ人もいる。
「プロレスとステーキ店の両立がいかに大変かを知らないから、そんなことが言えるんです。いくらでも教えてやるからやってみろ、と言いたい。プロレスラーでも『ステーキ店をやってみたいから教えてほしい』と仕込みを見にきた人が何人かいます。でも現場を見せたら、ほとんどの人は『無理です』と言って諦めました」
名前貸しでもサイドビジネスでもない。プロレスも店もどちらも本気だから、どれだけ忙しくても手を抜かず、厨房に立ち続けた。そのプライドが、今の松永さんを支えている。
子どもの頃からプロレスファンだった。当時はジャイアント馬場さんの全日本プロレスと、アントニオ猪木さんの新日本プロレスの2団体時代。スタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークなど、外国人レスラーの荒っぽく、破天荒で、時に凄惨なファイトに魅せられた。
夢はプロレスラー。中学、高校、大学は相撲部。大学時代は空手道場にも通った。すべてはプロレスのためだった。19歳で大学を中退。3つの団体の入団テストを受けるも、すべて不合格。当時はプロレス人気が高い割に団体は少なく、プロレスラーは限られた大型アスリートのための狭き門だった。
それでも諦めなかった松永さんは23歳のとき、新興団体FMWでデビュー。すぐさま、過激なデスマッチに生きる道を見出していく。
「デビュー戦で日本初の有刺鉄線デスマッチを経験して、怖いという感覚もなく生き生きと試合ができた。これが一番肌に合う、自分のやりたいことだと思いました」
だが、その後は鳴かず飛ばずの日々が続く。体はさほど大きくなく、見た目もスポーツ歴も平凡。表情は鉄面皮。地味で華がなく、受け身などプロレスの基本ムーブもほとんどできない。そんな松永さんに世間は冷たかった。一度はメジャー団体への出場チャンスをつかんだが「スター性がない」とたった2試合でクビに。そして、小さなインディ団体へと戦場を移す。
当時はお金も人気も、何もなかった。しかし1992年2月9日、松永さんは自ら行動し、運命を拓く。
プロレスや格闘技のマニアなら、すぐにイメージできるだろう。マンション3階ぐらいの高さがある、後楽園ホールのバルコニー。そこから命綱も付けずに飛び降りることが、どれほど正気の沙汰ではないのかを。
松永さんはデスマッチでの場外乱闘のさなか、狂気の“バルコニーダイブ”を決行。1階の客席で暴れる相手レスラーを目がけて、思い切り飛んだ。
「私、実は高所恐怖症なんです。でも、あのときは怖くも何ともなかった。スローモーションのようにゆっくりと、ふわっと飛んで落ちた。そんな不思議な感覚でしたね」
「当時、齋藤彰俊という高校の同級生が自分より後にプロレスラーになり、瞬く間にスターになっていた。彼へのライバル意識、いや嫉妬もありました。意地というか開き直り。失うものは何もないから、誰もやったことのないことをやってやろうと思っていました」
頭のネジが5、6本は外れた、破天荒極まりない“バルコニーダイブ”。テレビ放映のない小さなインディ団体で戦うデスマッチレスラーは、一夜にしてカルトスターになり“ミスターデンジャー”と呼ばれ始めた。そして、その年のプロレス雑誌のファン投票では、メジャー団体の人気レスラーたちを押しのけて4位に輝いた。
だが喜びはつかの間だった。自ら切り拓いた過激なデスマッチ路線に、新たな選手たちが続々と参入。追われる立場になった松永さんは、もう一つの道を模索していく。
「これはもう抜かれてしまうだろう。自分の時代は終わりだと思いました。じゃあ、プロレスを辞めたら自分は何ができるのか。それを考えたとき、頭に浮かんだのがステーキ店でした」
――つづく。
文:ベルナルド・マエダ 写真:井賀孝