有刺鉄線デスマッチ、月光闇討ちデスマッチ、五寸釘デスマッチ……数々の危険なデスマッチを戦ってきた元プロレスラーの松永光弘さんが、墨田区立花に「デンジャーステーキ」をオープンして22年。毎日欠かさず厨房に立ち、ステーキを焼くその心持ちとは。
築数十年の古いアパートが並ぶ景色の奥に、ときたま顔を出す東京スカイツリー。新旧が微妙に混じり合った、下町の風景。
亀戸、亀戸水神、東あずま、小村井、曳舟。
片道たった5駅、3.4kmを2両編成のワンマンで往復する東武亀戸線。ヒガシとアズマで東あずま。そんな不思議な名の駅の改札を右に出て、丸八通りをまっすぐ歩いた墨田区立花。オリンピックを前に洗練された街へと変貌せんとする東京イーストサイドの発展から、ほんの少し取り残された下町エリア。そこに「ミスターデンジャー 立花本店」はある。
店主の松永光弘さんは、90年代から2000年代にかけて一世を風靡したプロレスラーだ。1997年にプロレスとの二足の草鞋で店を始め、今年で22年になる。
「この場所に決めたのは、以前に働いていたステーキ店の社長さんから紹介してもらったから。私は愛知の生まれですし、特に縁はなかった。そう遠くない所に住んでいたのですが、ここでお店をやるとは想像していませんでしたね」
松永さんの声は、プロレスラーらしくない。往年のレスラーというと、今やバラエティの人気者となった天龍源一郎さんのように、喉元にくらい続けたチョップで声帯がつぶれ、ガサガサのかすれ声、滑舌が悪いと思われがち。でも松永さんは違う。かつてプロレスの先輩に「キャラに合わないから声をつぶせ」と言われたことがある。でも「歌が好きなので絶対に嫌です」と拒否。そんな過去があるから、その声は今もはっきりとよく通る。
店名の「ミスターデンジャー」は、自らのニックネームから取った。松永さんの代名詞は過激なデスマッチだ。有刺鉄線デスマッチ、ファイヤーデスマッチ、月光闇討ちデスマッチ、五寸釘デスマッチ……ほかにも建築現場、ピラニア、電球サソリサボテン、蛍光灯、電撃殺虫器、ファイヤーストーブ、裸足画鋲、裸足蛍光灯……など、それぞれを詳しく解説はしないが、数々の危険極まりないデスマッチを戦ってきた。
「怖かったのは五寸釘デスマッチ。五寸釘を大量に打ち付けたベニヤ板に向かって投げられて、釘が背中にブスッと刺さり、動けなくなった。あとはファイヤーデスマッチも恐ろしかったですね。ミスター・ポーゴさんという悪役レスラーに火を吹かれて、髪の毛が燃え上がりました」
「いろいろな人に『デスマッチって痛くないですか?』と質問されます。もちろん痛いに決まっています。『マゾなんですか?』とも聞かれますが、そんな趣向はまったくない。自分はとにかく、デスマッチが好きだった。それだけです。あのころは本当に楽しくて、幸せな毎日でした」
松永さんは回想する。体には現役時代に負った無数の傷跡が……と書きたいところだが、傷跡は意外なほど残っていない。
「男の勲章は傷。戦いの証として体に傷を残したい。そう思っていたのですが、傷があまり長く残らない体質で……。もう、ほとんど消えてしまいました。昔は毎日のように流血していたのに、額なんて今もきれいなものです。再生能力が高いんでしょうね。現役時代からトカゲ並と言われていました。縫ったことすらほとんどなくて、傷はいつもテープを貼って治していましたから」
生まれついての丈夫な体。デスマッチレスラーはまさに、松永さんの天職だったのかもしれない。
松永さんは今も毎日欠かさず厨房に立ち、自らステーキを焼く。開店時間の午後5時を過ぎると、店はお腹をすかせた人たちで埋まり始める。行列ができる日も多い。お客さんは性別も年齢層もバラバラ。ひとりで来る男性や、肉好きなカップルやファミリー、近所のお年寄り。そして時々、プロレスファン。
「近所の常連さんもいれば、遠くから来てくださる方もいます。開店早々満員になる日もあれば、給料日直後なのにガラガラ、という日も……。お客さんの行動は、何年やってもまったく読めません」
引退から10年が経ち、今や松永光弘の名前とファイトぶりを覚えている人は減りつつある。それでも松永さんが焼くステーキは、この下町で多くの人に愛され続けている。
メインメニューはステーキとハンバーグ。一番人気の”デンジャーステーキ”は食べやすいふた口サイズに切り分けられ、バターと、お好みでおろしニンニクを絡めることができる。これをテリヤキ、甘口、辛口、ゴマ味噌、青じそ、ホットチリの6つのソースやわさび醤油で食べる。いくつかのソースを好きにブレンドするのもまたうまい。
肉はとても柔らかいけれど、脂っぽさはない。だから、ぺろりといける。そして何よりリーズナブル。“デンジャーステーキ”は1ポンド450gで、ライスとスープがセットになって2,500円。この価格でこの味と量は、文句のつけようがない。
高級な和牛のステーキもいいけれど、それはそれ、これはこれ。デンジャーステーキは、テレビ放映されている華やかなプロレスの世界と対極にいた、デスマッチレスラー、松永光弘のキャリアと、どこか重なる。存在はメジャーというよりインディ。本流じゃなく亜流。歩んできたのは王道ではなく裏街道、けもの道。
では松永さんが焼くステーキは、どうしてこんなに柔らかくて食べやすいのか。その理由は、肉のチョイスと丁寧な仕込みにある。
――明日につづく。
文:ベルナルド・マエダ 写真:井賀孝