ここ数年、居酒屋を中心に筆を使って書かれた手書き(もしかしたら手書き風)メニューが増えている気がします。昨今、文字と言えば、画面上で目にすることがほとんど。手を使って書かれた文字は、やっぱり個性的。たとえ読みにくくても、目に留まるのかも。
昨日、撮影の合間に女性の編集者とライターとお茶していたときに日記の話になった。2人はPCを使って日記を書くことが出来ないそうだ。コンピューターを使っていると仕事モードになってしまって自分に正直になれない、と云っていた。
これは面白いなあ。紀貫之が女のふりをして「男もすなる日記といふものを~」と書いていたのはこのことかも。公式文書は漢字で日記はひらがな、という。
この連載は日記ではないし、私小説というわけでもないが、そのような側面を持っていることは否めない。それで思うことは、もしコンピューターやワードプロセッサーがなければ、こんな文章は書いていないだろうな、ということ。
肉筆で文章を書くこと自体が自分に正直である以前の問題で、生っぽすぎて文章を構築することが出来ない。子どもの頃から作文や読書感想文が苦手、というか大嫌いで、手紙を書くことも嫌だった。コンピューターを使って文章を書くのは自分を俯瞰で見ることが出来るので、わりと楽しい。自分にツッコミも入れやすい。
でも、かつて必要に迫られて自筆でラヴレターを書いたり、お世話になった人に礼状のようなものを書いたことはあるわけで、そんなものが、ひょっとして今でも存在することが、あー、もうイヤだイヤだ。受けとった方は覚えていないに違いないので、自意識過剰の間抜けな野郎なんですが、きっと。
あとね、あまりにも美しい字で書かれた自分宛の手紙もちょっと気が滅入ります。なんでかなあ。自分は字が下手、かつだらしがないなので何かの圧を感じるのかも。
つい先日、自分が写真を撮った若い友人に写真使用の許諾を得るためにLINEを送ったら、絵葉書で返信をもらって、それは嬉しかったなあ。勝手なもんだ。でもその葉書の文字も達筆とかじゃなくて、味がある、的な筆跡でした。そもそもダイレクトメール以外の葉書をもらったのも、かなり久しぶりの気がします。
「次回の『山の音』は銚子電鉄・仲の町駅の伝言板で6月25日、正午に更新します。6時間限定」なぁーんていうのもやってみようかな。チョークの直筆は悪くない気がするな、すぐ消えちゃうしね。誰かがスマホで写真に撮りそうな気もするけれど。
伝言板のことを知らない方はお父さん、お母さんに訊ねてみてください。
――6月25日につづく。
文・写真:大森克己