いつも賑やかな「真澄」だけれど、最後の夜も変わらない。楽しく飲んで、美味しく食べて、愉快に語らって。そんなお客さんたちを前に、やっぱり変わらない5人の立ち振る舞い。さよならというよりは、またねという雰囲気だったなぁ。
夜の部は予約で一杯。半月前から満席御礼となっている。
いつもは茂夫さんと晴江さん、裕太郎さんの3人で切り盛りしているが、今晩は特別に昼と同じメンバー、真澄さんと律子さんの5人が揃った。
17時に暖簾を出して、18時前にはカウンター席だけほぼ埋まるも、まだ忙しなさはない。外から店の中を覗いて様子をうかがう人もいるが、がらんとして見えても入れない。辛いよね。裕太郎さんが、表に出て満席であることを伝えている。中には、「頑張ってね」と裕太郎さんに声をかけている人もいた。
裕太郎さんの妻が、娘さんを抱っこして保育園のお迎えの帰りに立ち寄る。この後も、裕太郎さんの兄と妻とその子供ら、律子さんの夫とその息子など、「真澄」一家が顔を見せに現れた。
18時になると、小上がりを予約していたお客さんが五月雨式にやって来て、端っこから席を埋めていく。古くからの「真澄」ファン。近所にある製紙会社の方々だそうだ。
真っ先に入ってきた男の人ふたり、水色シャツと紫ギンガムチェックシャツをお召しの方々に、ここにはどれくらい前から来てます?と訊ねる。
水色さん「27年」。
ギンガムさん「奥さんよりも付き合い長いんじゃない?」。
水色さん「まあ……」。
ギンガムさん「俺はそんなことないけど」。
会社はここから歩いて5分かからないくらいのところにあり、従業員は100人程という。「真澄」の一時閉店については社内メールで知ったそうだ。「重要事項ですよ」とふたりは口を揃えたのだった。
そういや、入社したときから来ている人もいるのだと晴江さんが言っていた。「面接をすると、ここへ連れてきて、酔っ払わせて本性を見る」と。
三々五々やってきた社員さんらに、新入社員のときから来ている方は?と訊ねると、「みんなそうだよ」「そうそう」と、これもまた、口を揃える。
年末、15時に仕事が終わる仕事納めの日は、早めに店を開けてもらって飲みに来ていたこともあるという。
営業部長曰く、「吉田類のテレビに出てから、混んでなかなか入れなくなっちゃったときもあったよな。90年代はカウンターの半分がうちの社員、半分が商店街のおやじたちだった。けど、おやじたち、みんな死んじゃったんだよ」。
18時15分。この時点で、私はノートに「今はまだ、店の中にいる誰もが、乾杯のすぐ後で、飲むピッチも早くなくのんびりしている」とメモしている。むしろ年末に訪れたときのほうが、世間の雰囲気、歳末感を映して、切羽詰まった高揚感があったな、と思って。
しかし、後から気付いたのだが、飲み急いでいないということそのものが最終日らしかったのかもしれない。
18時35分。ついに満席になる。店内の酩酊度が上がって、がやがやとしてくる。
ここまでは、まだ空いている席の脇など、邪魔にならないような場所を見つけてそこに立ち、あれやこれやとメモを取っていたのだが、あるお客さんはそれを伝票だと見誤ったらしく、すみませんビール追加で、と注文されることもあった。ただ「真澄」の客席と客席の間は決して広くなく、文字どおり立つ瀬がないというか立錐の余地なしなので、写真担当の金子山さんを残し、表に出た。
20時25分。カウンターが1席だけ空いたとの知らせを金子山さんより受け、「真澄」に戻る。でも、ここで帰ってもしまってもいいかなとも、ちらっと思う。なにせ最終日、私よりも長く通っているお客さんの邪魔をしないほうがいいかなと。でも、記録するために来たというのは本当なので、思い切って戻ってみた店の中は、2時間ほど前とそれほど大差なく見える。
空いた席というのは、カウンターのいちばん端っこ、厨房と客席を繋ぐ通路の脇だった。とりあえず腰掛けて、そうするとただ座ってメモを取っているだけというのも無粋だから、瓶ビールを注文する。立っているとそわそわするが、席に腰掛ければ、店内のざわめきは心地よいものとして耳に届く。自分もそのざわざわの中に溶けこめるからだろうな。
ちょっと手の空いた隙をみて、茂夫さんはビールコップに日本酒を注いだコップ酒片手に、その通路に置かれたヒーターの上に腰掛ける。銘柄は真澄ですか?と訊ねてから、真澄しかない店だから愚問だなと気付く。茂夫さんはそんなこちらの思惑は意に介さず、にこにこして答えてくれる。
「ずうっと飲んでるとさ、慣れてね。いちばん好きなのが日本酒だね。常温で」
21時半。厨房の端のほうに、年季の入っている木製の一升枡にすりきり一杯のお米が置かれているのが見えた。
夜の部では、おにぎりと焼めしのために、たいてい一升五合はお米を炊くと聞いていたが、10人程の団体客からおにぎりの注文が入ったので、今から追加で炊くとのこと。茂夫さんはコップ酒を置いて、お米を研ぎ始める。
かつて、ここでアルバイトをしていたという女の人がやってくる。
最後の日だから、夫と高校生の息子ふたりを連れ、ごはんを食べに来たのだそうだ。アルバイト歴は高校時代からというから、息子さんと、ここで立ち働いていたかつての自分自身は、同じくらいの年頃なわけだ。なんとも感慨深いだろうな、などと思いながら、ちょうど空いたいちばん奥の席に向かうその人の背中を眺める。
21時55分。表の照明が消える。
22時。暖簾を下げる。洗い物をしている茂夫さんは、石原裕次郎の「今日でお別れ」の歌い出しを口ずさんでから、あはは、と笑った。
同じく、厨房で片付けをしている晴江さんに、店で使っていた調度品はどうするのかと訊ねると、小上がりの壁の真ん中にかけてある真澄のポスターを額装したものを指して、あれは新しくなった店に持っていくのだと言った。メニューを記した黒色の札もとっておくかも、と言う。
「あとは解体屋に持ってってもらう。全部、ぜえーんぶ、替えちゃう。亭主も替えちゃうかも。あははは!」
茂夫さんと晴江さん夫婦は、笑いの明度が同じなのだなあ、と、感じ入った。
22時10分。大きな大きなおにぎり、お皿に載って登場。
22時15分。小上がりで〆の乾杯。
22時35分。ネタケース、すっかり空になり、きれいに片付けられていく。
洗い物をしながら、真澄さんは「あたしはちょっとさみしいわ。うちらはね、実家だもん」と、隣でやはり洗いものをしている律子さんの背中をぽんと叩く。律子さんは「いや、私は……」と苦笑している。そこで晴江さんがきっぱりこう言う。「涙なんか流してない。私の夢だから」。
23時10分。さて、ここまで、時刻は戸口の上の掛け時計を見てメモしていたのだが、5分進めてあるということを明かされる。
気付かなかった!迂闊。それはそうと23時過ぎであることは間違いない。入口近くのカウンター席のお客さん以外は皆、帰っていってしまった。
がらんとした小上がりの縁に、茂夫さんと並んでコップ酒片手に腰掛ける。縁側に腰掛けているみたいな気分で、茂夫さんの仕事観、いやむしろ人生観を聞いていた。
「たとえば鯵があれば、料理が4つできる。なめろう、刺し、フライ、塩焼き。だからメニューが増えるわけですよ」
品数の多さについて、茂夫さんはあらためて解説し、そしてこう続ける。
「おれは、板前さんじゃない。板前さんは“腕”でしょう?うちは“生活”優先だから。板前さんを雇わなくとも一生懸命やって、1円でもプラスになるように頑張ってるの。われわれは、食っていければいい、生活できればいいから」
研ぎ澄まされた仕事ぶりを誇る、自身の腕に高値をつけて売る、そういう方向は目指さずに、あるものをどれだけ活かせるかを工夫し、大衆的な店を営んできた。その茂夫さんの自負が、この台詞にあらわれていると解釈していいだろうか。
この晩、おいとましたのは何時だったろう。真澄の酔いに取り紛れ、そこは記憶していないし、記録してもいなかった。帰宅したのは24時を過ぎていたことは確かだ。それと、ノートに書きつけたこの日の記録の、いちばん最後のページには、茂夫さんの台詞として、こう記してある。
「朝起きて、働いて、飲んで、寝て。若いときと同じサイクルで生きていけるんだから、幸せだと思いますよ。幸せって、自分が決めるものだから。人生いろいろ、なにが正しいかわからないんですよ」
――つづく。
文:木村衣有子 写真:金子山