2019年3月1日。半世紀以上にわたって営業を続けてきた「真澄」と1年のお別れとなる、最終日。どんな雰囲気になるのかな。午前10時。ランチの仕込みに足を運べば、せっせと準備に勤しむ5人の姿があったのです。
古くからの常連でも身内でもない私ではあるが、できることなら、「真澄」の、これまでのアルバムをつくるようなスタンスで、なにか書かせてもらえないだろうか。
最後の日はどんな様子になるのか、記録させてほしい。加えて、その日が過ぎて少し落ち着いた頃、店舗を取り壊す前に、聞き書きと撮影をさせてもらいたい。
2月の中頃、そのお願いをしに「真澄」を訪ねてみた。ついでに飲んで行きたいなという下心もあったが無念、満席。けれど、店先で、おにいさんに挨拶ついでに、取材の申し込みをし、快諾してもらえた。そこでおにいさんの名前も改めて知る。高木裕太郎さん。1980年生まれで、家業であるこの店に入って7年ばかり経つ、と。
では改めて、「真澄」の履歴書を。
私がカウンターの外側から見ていた3人は、裕太郎さんと、彼の両親の、茂夫さんと晴江さん。
1955(昭和30)年12月、茂夫さんの父が、おでんと茶めしの店「真澄」を開業する。店名は、茂夫さんの妹である「真澄さん」の名前をそのまま映している。日本酒の銘柄は「真澄」一本に絞られているので、てっきりそこから名付けたのだろうなと思い込んでいたら、それは後から店名が繋いだ縁だという。お客さんが、同じ名前のお酒があるよ、と知らせてくれるまでは、菊正宗と白鷹がレギュラーを張っていた。
真澄を醸す宮坂醸造がある、長野は諏訪とはそれまでは特段の関わりはなく、茂夫さんの父も「真澄」がある、この場所の生まれ育ちだ。
さて、茂夫さんは中学校を卒業してからは、昼間はその頃には母が中心となって切り盛りしていた「真澄」の手伝いをし、夕方からは別の店で働いた。白山のうなぎ屋で1年、浅草のふぐ屋で2年。そして、1966(昭和41)年に、「真澄」を、ふぐと馬刺しとおでんの店として新装したとき、茂夫さんは二十歳だった。
「500円時代。お酒3本とふぐ一人前で500円だったもんね」
1974(昭和49)年末、茂夫さんの母が亡くなった。翌年3月に、佐竹商店街の八百屋さんが縁をつなぎ、茂夫さんと、当時は電機メーカーの受付をしていた晴江さんはお見合いをし、5月に結婚。
「一目会ったその日から」と、茂夫さんはさりげなく、のろける。
晴江さんは、埼玉は熊谷の出身。髪型はベリーショート、黒色の半袖Tシャツに金のネックレスが似合っている。
「マスター曰く、あたしは『ミス農村』」
厨房内では、修業の成果をずうっと活かし、魚介類は茂夫さんが担当している。ほかのメニューは晴江さんか茂夫さん、そのときどき、手が空いている方がつくる。
「ポリシーがないんです」と、からっとした口調で謙遜する晴江さんが振り返るには「あたしが来たときあったのは、ふぐ、まぐろと鯵とたこといか、おでん、おしんこ、ライス。そいだけ。来てからだんだん増えちゃった。私の味にお客さんが合わせてくれてんの。我慢してくれてんの」。
気っ風のいい口調でまたも謙遜する。我慢なんて、そんなことはもちろん誰もしていない。
壁一面に貼られたメニューの札にある、ちょうどいい塩梅の、おいしそうな字も晴江さんの手によるものだ。
オートバイで白山に通っていた頃、常連さんとの旅行先での仮装姿など、茂夫さんは往時の写真を出してきてくれた。晴江さんに、昔は、店おっぽらかしてすぐどこかに行ってたんだから、と、軽く睨まれる。茂夫さんはそっぽを向いてとぼけている。
かつては土曜日も店を開けていたのだそうだ。
「サラリーマンが土曜日を休むようになってから、うちもやめちゃった。昔は佐竹商店街の店主が飲みに来てくれてたから午前2時までやってたんだけど、みんな80歳超えて、亡くなっちゃって」
1989(平成元)年に改装し、「真澄」は広くなる。店の奥にテーブル席が用意されたのはそのとき。それ以前は家と店が密着していて、厨房の奥に風呂場があり、幼時の裕太郎さんは、風呂上がりに裸んぼでお客さんの前に飛び出したこともある、と振り返る。
裕太郎さんは3人兄弟の末っ子だ。上には姉と、双子の兄がいる。「真澄」に入る以前は、テニスのインストラクターをしていた。
「お姉さんのりっちゃんが嫁に行っちゃったんで、じゃあ継ぐって言って裕太郎が帰ってきた」と、晴江さん。
それ以前のおよそ10年は、姉の律子さんと親子3人で夜の部を切り盛りしていたという。律子さんは文字通り看板娘で、成人式の折には、振袖姿の記念写真をテレホンカードにして常連さんに配られたほどの人気を誇る。柔らかな笑い顔を一目見ればそれも納得だ。
夜の部。そう、私が知っている「真澄」はその夜の顔だけだったが、実はお昼には定食屋として営業をしているのだった。昼も夜も常連だというお客さんもけっこういるそうだ。
3月1日、午前10時半。
定食の支度をするために、茂夫さん、晴江さん、裕太郎さん、そして真澄さんと律子さんの5人がてきぱきと立ち働いている風景は、清々しい。旅館の朝を彷彿とさせるのは、お椀とお盆が積み重ねられたタワー、こざっぱりと片付けられた小上がりに重ねられている座布団などのせいか。
およそ90人分を用意する。今日もいつもと同じ数。最終日だからといって普段より多めに仕込むなどはしなかったという。
お昼だけで1日200人が来ていたという少し昔を振り返る、晴江さん。
「自慢じゃないけど、並んでたもん。商店街の人もよく来てたよね。忙しくて自分ちで用意できないからって。ほら吹いてんじゃないよ、いまは落ち目だけど」
「その時分は、いまみたくコンビニもないからさ。魚屋だの八百屋だの、肉屋だの“なんとか屋”っていう商売がね、そういう店がどんどんつぶれていっちゃって」と、茂夫さん。
いま現在、決して賑やかとはいえない佐竹商店街の風景はかつてはまるで違った。晴江さんがお嫁に来た当時は、11月の酉の市の混みっぷりを思わせるものだったという。裕太郎さんも、小中学生の頃は、玩具屋やゲームセンターもあったと言う。一時はもっとがらんとしていたけれど、大江戸線が開通して、新御徒町駅ができてちょっと盛り返した、とも。
こちらが投げかけた質問への、皆からの答えが出尽すと、器のかちゃかちゃいう音と、マスターの口笛だけが聞こえた。そういえば「真澄」には終日BGMはない。いつも賑やかだからそれと意識したことがなかった。
午前11時半、暖簾を出す。
店を開けて間もなくは、ひとりで来るお客さんがほとんどだけれど、正午を過ぎると3、4人連れ立ってくる人たちが多くなる。
お昼時、真澄さんが、注文を聞いてまわる。
「はいどうぞ、なにしましょ」
カウンター席に腰掛けて、丼飯をかっこんでいたひとりのおじさんは、真澄さんに「今日で終わり?」と訊ねる。
「知らなかった?」
「3月だっていうのは、聞いてたんだけど」
やはり顔見知りと思しきお客さんに、真澄さんが「知らなかったの?マジで?」と言っているのがこちらの耳に届く。何気なしに、ちょっと久しぶりにお昼ごはんを食べに来て、たったいま知らされたらさぞやびっくりするだろう。
また別のお客さんは「また来年、来まあす」、明るく挨拶して帰っていく。真澄さんは、「お元気でー!」と送り出す。
もう少し改まった口調でやりとりをする間柄のお客さんには「今日で1年お休みするんですよ。来年、来年また!よろしくお願いします!ありがとうございます!」と、ややウグイス嬢がかった挨拶をしていた真澄さん。でも、大事なことだからそれくらい念を押さないと。また、来年、と。
昼営業は午後の2時まで。お客さんが引いたら、真澄一家の昼食だ。「ここで食べたり、みんなでよそに食べに行ったり」するのだと、晴江さんは言った。
――つづく。
文:木村衣有子 写真:金子山