田原照淳さんの父と母が太宰府で始めた喫茶店「蘭館」。「大宰府で珈琲を飲みたくなったら『蘭館』に行こう」というように、地域に根づくまでには30年もの歳月がかかったと言います。その要が珈琲であり、焙煎という仕事。二代目の田原さんが父と同じ焙煎の道を歩み始めたきっかけは、何だったのでしょう。
商売として割りきれたら、焙煎などに悩まずに済んだだろう。
しかし、イメージする理想の珈琲があるばかりに、焙煎という壁にぶち当たってしまった。そんな父を思うとき、当時の業界や焙煎を取り巻く環境、機械の性能を思えば、無理もなかったと田原さんは言う。
珈琲豆を深く焼き込んでいくことで個性を主張する日本製の機械で、先代の昴さんが求めた豊かな香りや軽やかな味わいを生み出すのは、構造的にも不向きだったのだ。インバータという回転速度を変えることができるモーターもついていなかったし、焙煎所の環境や煙突の長さや、その日の気圧の配置によっても味は変化する。
そのうえ、扱うのは、自然素材の生豆である。
「クルクルと猫の目のように変わる生豆に対して、一定の法則なんて導き出せるわけがないですよね」
田原さん自身、焙煎にのめり込んだら、父と同じようになってしまうのではないかという不安を抱いていた。それを防御するためにも、同じ目的をもった仲間と交流しながら最新の知識を学ぶように心がけてきた。
「僕が焙煎したり、珈琲を抽出したり、競技会に出たりしている理由は、簡単です。あのときに父がしようとしていたことの一定の法則を見つけたいし、それが無理だとしても、父がどういう気持ちだったのかを理解したい。僕がなぜ珈琲の検定試験を受け続けているかというと、その謎が解けてないからなんです」
「豆を焼くときの排気量を調整するダンパー操作だけでも、一生をかける価値があると思います。いま僕は焙煎は簡単ですよとか言って教えているけど、そういうもんじゃないんですよね、実は。地道な仕事なんです。自家焙煎店で、自分というものを表現する方法としたら、焼けなければダメ。つまり自分の存在意義をかけた闘いなんですよ、僕もそうですけど」
紆余曲折があった開店当初の10年間があったから、20年、30年と今日まで続けてこられたと、母の順子さんがポツリともらした言葉を田原さんは胸に刻んでいる。太宰府で珈琲を飲むなら「蘭館」。そう認知されるまでに、実に30年もの歳月が必要だった。
田原さんは、26歳で「蘭館」に入店した。皿洗いと接客だけで過ぎていく1日。
「お客様からしたら、いい若者が何してるんだって感じですよね。アルバイトみたいで、ちょっと恥ずかしかった」
自分の居場所を確保するために、食事メニューを増やしたり、専門書を買ってケーキをつくったりするなかで、最終的に行き着いた場所が珈琲だった。
当時も自家焙煎。順子さんが女性の感覚でお客様から喜ばれるやさしい風味の珈琲を焼いていたし、「蘭館」の焙煎を母から学んだこともあった。でも次第に疑問が募っていった。本当にこれでいいのかなと。
迷いの渦中にあったとき、大分県は湯布院のとある珈琲店で「ものすごい珈琲にぶち当たった」。店の中央に据えられていた機械は、ドイツ製のプロバット。それまで見たことも聞いたこともない焙煎機だった。家に戻り、興奮して母に話したら、「そうよ、あなたのお父さんが本当に欲しかったのは、そのプロバットという焙煎機やったんよ」と返ってきた。
田原さんが歩むべき道は、その瞬間に決まった。
――つづく。
文:小坂章子 写真:長野陽一