酒場には入口と出口がある。岡本仁さんは言います。その土地に行ったら、なにをおいてもまずはその店に行かないと気がすまない店。これが入口。さんざん飲んで食べて満足しても、最後にあの店に寄って帰りたいな。そう思う店が出口ですね。酒場の入口と出口はどこにでもあるわけじゃないけれど、あると幸せ。楽しい夜になります。
大概の人にとってそうであるように、ぼくも伊勢へ行く目的は伊勢神宮だった。神社にお参りするのは午前中がいいと子供の頃から言い聞かされているから、東京を始発で出発し、名古屋で乗り換えるというスケジュールを考えてみたが、それだと伊勢に到着するのは9時半になってしまう。でも伊勢神宮は朝5時開門(冬季は6時)で、早朝参拝の荘厳さは伝え聞いている。それならば名古屋出発にすれば、始発の近鉄急行に乗ると伊勢到着は7時過ぎにできるではないか。というような理由で、はじめての伊勢訪問は、前日に東京を出て名古屋に泊まることにした。
朝食はホテルのフロントにお願いしてサンドイッチを用意してもらう。まず外宮にお参りしてから内宮へ。参拝の後は「赤福」に寄り、餅を食べて名古屋に戻った。そして名古屋の出口である「大甚本店」でいい気分になる。それはそれでとても楽しかった。いずれにしても、その当時は伊勢に泊まるという発想はまるでなかったのである。
つい最近、ぼくは伊勢に泊まることの楽しさを知ってしまった。友人と一緒に伊勢のさまざまな店をまわったのだ。だからこれから先の伊勢参りは、初回とはずいぶん違うものになっていくだろう。不真面目な態度と呆れられるかもしれないが、まずは伊勢の入口を「伊勢神宮外宮」から「一月家」に変更したいと思う。そして出口は「美鈴」。その日は伊勢に泊まり、参拝は翌日早朝からにするのが理想的だと考えている。伊勢に素晴らしい居酒屋があるという話は、全国の名店を紹介した本を読んだ友人にあらかじめ教えてもらっていた。それが「一月家」だ。
ただ、その際にもっとも大事な情報を聞き漏らしていた。「一月家」は午後2時開店。旅先で開店時間の早い居酒屋が見つかると、その街のことがいっそう好きになる。外が明るいうちに飲むのは旅の特権だろう。だからといって朝から飲み始めたい訳ではない。それを躊躇する気持ちは持っている。やはり午後が望ましく、昼飯時よりは少し遅いほうがいい。そういう意味で午後2時というのは絶妙な時間だ。
到着が夕方になるという友人を待たずに、午後2時ぴったりに「一月家」の前に立つと決めて、東京をひとりで出発した。ホテルに荷物を預け、まっすぐに目的地まで歩く。ところが暖簾が出ていない。ただ店内に人の気配はある。思い切って戸を開けると、案の定、カウンターにはすでに数人の客が座っていた。たぶん暖簾を出す前に馴染みの客が入ってきて、そのまま料理や酒を用意するうちに忘れてしまうのだろう。後から入ってきた常連客に「暖簾が出とらんよ」と言われても、そんなに慌てる様子もない。湯豆腐と鰹の刺身と燗酒を注文。
カウンターの内側でにこやかに話している人物は、みなに「若」と呼ばれている。そのうちに女将らしき女性と店主らしき男性も現れた。若はひとりでやって来たはじめての客に、伊勢の美味しい食べ物をいろいろと教えていた。もちろんぼくにもそうしてくれるのだが、それがちょうどいい塩梅の話しかけ方で、基本はひとりで居たいけれど、ひとりにちょっと退屈もしている身にとってはありがたい。
ぼくにとって酒を飲むことと食事をすることはイコールだから、自然とそれにふさわしいメニューがないか、どの店に入っても探してみる。品書きの木札とは別の場所に「カレーライス」と書かれた紙と「お茶漬け」と書かれた紙とが貼られていた。まだ3時過ぎなのにお茶漬けを頼んでしまったら、まるで1日の〆のような気持ちになるだろう。とはいえカレーを夕食前のこの時間に食べるのもどうなのだろうか。迷った上でカレーを選んだら、思ったよりも小さな皿で大正解だった。しかも適度にスパイシーで美味しい。おそらく夜からがこの店の真骨頂なのに違いないが、ぼくには入口としてあまりにパーフェクトなので、心から満足して店を出た。
「伊勢の酒場」出口篇に続きます。