
一年に一度だけ、立春の日に造られる生原酒「立春朝搾り」。朝に搾った酒が酒販店へと渡り、その日に飲み手まで届くなんて、舞台裏ではどんなことが起こっているのだろう……!今回は2026年の「立春朝搾り」に密着。栃木・せんきんから、東京・赤羽の三益酒店まで、136kmの旅を追います。
立春の朝に搾ったお酒を、その日のうちに酒販店で買ったり、飲食店で飲めるというスペクタクルな「立春朝搾り」。春の始まりである立春を祝う縁起物であり、究極にフレッシュな生原酒を楽しめるということで、毎年この日を心待ちにしている日本酒ファンも多いのでは。2026年は35都道府県42の酒蔵が一斉に「立春朝搾り」を出荷し、総出荷数はなんと合計約27万本に。一年で最も日本酒が売れるのは年末だと思っていけれど、まさか立春の日だったとは。
ずっと不思議に思っていたことがある。「はたしてこのお酒は、どうやって私たちの元へ届いているのだろう?」。酒蔵で、酒販店で、現場では何が起こっているんだ!
2026年の立春は2月4日。よし、決めた。見に行こう。酒蔵で酒ができてから、酒販店に届くまで、「立春朝搾り」を追いかけたい。スタートは、今年10年目の「立春朝搾り」を迎える栃木の酒蔵、せんきん。ゴールは東京・赤羽の三益酒店だ。両者間の距離は約136km。はたしてどんな旅になるのだろうか。

密着ルポの前に、そもそも「立春朝搾り」とはなんぞや?という話をしておこう。
主催しているのは日本名酒門会。酒類や食品の卸販売を手掛ける株式会社岡永が、1975年に発足した組織だ。酒類業界で一大ブームとなっていたボジョレーヌーボーにヒントを得て、「日本酒業界でも同じようなことができないか?」と考え出したのが「立春朝搾り」。立春は春が始まる日であり、お正月同様におめでたい日。加えて一年で最も寒い「寒」が明ける日でもあるので、低温発酵させた日本酒を発売するのにはうってつけだと、この日が選ばれた。
「初めて開催したのは1998年。その時の参加蔵は栃木の第一酒造さんのみでした。現在では毎年40以上の酒蔵さんが取り組んでくださり、昨年で累計の出荷数が500万本を超えました」と教えてくれたのは、日本名門酒会本部、株式会社岡永の朝倉英幸さん。

「立春朝搾り」には、厳格なルールがある。なぜならこれは、酒蔵と酒販店のチームプレイがあってこそ成立する酒だからだ。
一つはもちろん、立春の日に搾り終わること。1日早くても遅くてもアウト。おいしくできるのか、きちんと量はとれるのか。搾るその瞬間まで答えがわからない緊張感ゆえ、“杜氏泣かせの酒”なんて言われていたりする。

そして酒販店は当日の早朝、必ず酒蔵に集合しなくてはいけない。完成した酒と共に地元の神社の御祈祷を受け、無病息災・家内安全・商売繁盛の祈りを込めたら、それぞれの店へ持ち帰る。商品の発送はできるが、どんなに遠方でも誰かは酒蔵に来ることが条件になっている。

「せんきんさんの集合時間は立春の日の朝6:30。酒販店さんの中には夜中から車を走らせてきたり、前泊して準備される方もいらっしゃいます。こんなお酒だからこそ、酒販店さんはお客様から『届けてくれてありがとう』と、いつも以上に感謝の言葉をかけられるそうで、『酒販店をやっていてよかったと思える日だよ』という声をたくさんいただきます」と朝倉さん。
酒蔵と酒販店ががっつりタッグを組み、全国の日本酒ファンに縁起の良い酒を届ける。一年に一度の祭りの舞台裏を、ついに見る時がやってきた。

【2月3日 15:00】
かくして、栃木県さくら市にあるせんきんの蔵へやってきた。蔵内には赤字に白い文字で「立春朝搾り」と書かれたのぼりがヒラヒラとはためき、着々と祭りの準備が進んでいる。
杜氏の薄井真人さんが蔵を案内してくれる。2024年から“江戸返り”を掲げ、自然に寄り添った酒造りへと大改革を行ったせんきん。吉野杉でできた木桶がずらりと並ぶ光景は圧巻だ。
酒母は全量生酛。もちろん「立春朝搾り」も例外ではなく、「生酛で仕込んでいるのは、全国でもせんきんさんだけです」と朝倉さん。ちなみに「立春朝搾り」は純米吟醸または特別純米の生酒という規定があり、米の品種や酵母は自由。価格は全国統一で2,200円(720ml)と決まっている。

杜氏にとって「立春朝搾り」は、造り手のプライドをかけた腕試しの酒である。
「毎年楽しみですし、勝負でもあります。醪の発酵具合をみながら搾りの日を決める、ということができませんから、本当に杜氏泣かせの酒ですが、決められた日にベストな酒に仕上げる技術があってこそ、職人だと思うんです。『立春朝搾り』に挑戦することは、私だけでなく蔵人たちのスキルアップにもなる。これほどたくさんの方が楽しみにしてくださっているお酒もなかなかないですし、もしお届けできないなんてことになったら、杜氏のプライドが許さないです」。静かに語る杜氏の目の奥に、プロフェッショナルの炎が燃えていた。

「立春朝搾り」の「仙禽」は、醪の発酵日数が30日間と通常よりも長くなる。長くなるぶん酵母は糖分をたくさん食べるので、どうしてもドライな酒質になりがちだったという。上品な甘味を残すため、杜氏は麹の菌糸の破精(はぜ)廻りを六割くらいになるように麹を造る。

「酵母が常に腹八分で、ちょうど良いペースで糖分を食べ続けられるようにするためです。人間と同じで酵母も、満腹になってしまっては働けなくなりますから。理想的な麹に仕上げるために、製麹はもちろん、米の吸水率を控えめにしたり、蒸米も調整します。すべての作業が繋がっているんです」
この微細なコントロールは、日頃の酒造りで鍛え上げた"感覚"があってこそ成せる技。麹に使う酒米の95%を精米歩合50%の山田錦(しかも同じ生産者のもの)に統一しているのも、杜氏の感覚をぶれさせないためだ。

「毎日同じ原料に触れることで、ちょっとした違和感に気付けるようになります。同じ原料を同じように精米、洗米して蒸し上げたとしても、米の質や外気温、その日の天候でも仕上がりは変わる。変化に気付けば、造りの微調整ができます。本当にミリ単位のことですが、少しでもお酒が美味しくなればと思ってやっています。もしも『いつもと違う酒米で立春朝搾りを造って』と言われたら、難しいかもしれないですね(笑)」
小さな変化を感知できるからこそ、設計通りの麹を造り発酵をさせ、立春の日にジャストな状態に仕上げることができる。“神は細部に宿る”とはまさにこのことだ。
【2月3日 16:00】

「立春朝搾り」は立春の日に搾り終わることが鉄則。せんきんでは午前2:00ごろに搾り終わり、そこから夜通し瓶詰め、ラベル貼り、梱包を終え、6:30に集まってくる酒販店を迎えなければいけない。
搾るまで正確な量がわからないのが、これまた“杜氏泣かせ”なところ。酒販店はすでにお客さんの予約を取っている。足りませんでしたなんて、絶対に言えない。
「本当に緊張します。もちろん量は予測できるのですが、いざ搾ってみると『足りないのではないか?』とヒヤヒヤすることもあります。特にここ最近は高温障害でお米の質が変化してしまい、溶けずに酒にならないことが多い。本当に正確な量は搾ってみないとわからないんです」。なんだかこちらまでドキドキしてきた。そして今、全国の参加酒蔵で同じ思いをしている杜氏さんがいるのだろう。搾りたての「立春朝搾り」は、タンクの中で黄金色に輝いていた。

【2月3日 18:00】
前夜祭が始まった。毎年せんきんでは、前日入りしている酒販店を招いて一席設けるのが恒例だ。ちゃっかり参加させていただき話を聞けば、京都や鳥取、遠くは北海道から来ている酒販店さんがいて驚いた。
10年前の初回からずっとせんきんの「立春朝搾り」を取り扱っているという、鳥取市・谷本酒店の谷本暢正さんは、遠路はるばる栃木まで来る理由をこう話してくれた。「やっぱり人ですね。彼らの思想や造りが好きですし、せんきんさんなら絶対においしい『立春朝搾り』を造ってくださると信じられる。だから鳥取まで届けたいと思うんです」。
せんきんの専務で、真人さんの兄である薄井一樹さんにとっても、「立春朝搾り」は特別な行事だ。
「一年に一度の縁起物ですし、なにより全員が同じ目的に向かっているというのがいい。毎年こうして一流の酒販店さんが全国から集まってくださいますが、それぞれ普段は個々の戦略や思いでお店をやっていらっしゃる。でも『立春朝搾り』だけは目的がみんな一緒なんですよ。こんな機会はなかなかないでしょう」

ワイングラスに注がれた「仙禽」を味わいながら、賑やかな夜は更けていく。杜氏はこのあと蔵に戻り、夜通し作業をするそうだ。0時を回るといよいよ立春当日。後編へ続きます。

文・編集:井上麻子 撮影:阪本勇