映画やドラマに登場する「あのメニュー」を深掘りする連載。第37回はちょっと不思議な雰囲気の中で繰り広げられるハートフルコメディより。異国の地でつくられる「日本料理」が美味しそうに映し出されます。
フィンランドの首都・ヘルシンキに、日本人女性サチエ(小林聡美)がカウンターに立つ「かもめ食堂」がある。通りに面した入口から、ペールブルーを基調とした食堂と、木製カウンターの奥にこじんまりした厨房が見通せる。まだ新しい白木のテーブルと椅子が整然と並び、銀色のペンダント照明や白い壁がいかにも北欧らしい清潔感を醸し出す。
この和食店にはまだ、お客さんはほとんどやってこない。日本かぶれの青年が顔を見せる以外、町の住民たちは物珍しそうに眺めては通り過ぎていくだけ。
ある日、サチエはシナモンロールを作ってみようと思い立つ。北欧おやつの定番メニューである。同居人・みどり(片桐はいり)とともに、生地をこね大きな四角に伸ばし、シナモンとグラニュー糖をまんべんなく振りかける。端からぐるぐると丁寧に巻き込み、筒型にしたロールを一個分ずつカットしていく。ふくらみすぎないよう真ん中を両手の小指でぎゅっと押さえてからオーブンへ。うずまき形の可愛らしいシナモンロールが出来上がり、歓声を上げるサチエとミドリ。焼きたての香りにつられて、ようやく3人連れの中年女性が店に入って来た。
シナモンロールはこうして、食堂のカウンターの定位置に鎮座することになるが、サチエはおかずに関しては徹底的に和食にこだわっている。キッチンで作られる料理は、日本の街角にある食堂メニューそのものだ。
手際よく、フライパンで豚肉の生姜焼きを作るサチエ。味をしっかりしみこませた豚肉の両面に火を通し、さらに上から飴色のタレを回しかける。フライパンはジュジュッと音をたて、甘辛い匂いが厨房に立ち込める。
隣のコンロには、網とセラミック皿の二段式魚焼きグリル。皮つきの大ぶりなシャケが、遠火で焼かれている。シャケの脂が染み出し、じゅうじゅう音をたてて受け皿に滴り落ち、皮はこんがりといい焼き色に。菜箸でシャケのふっくらした厚みのある身を少し持ち上げ、火の通りを確認。生姜焼きとシャケを、それぞれ緑の野菜とともに大皿に盛りつけ、生姜焼きにはフライパンの中で煮詰まったタレをスプーンで最後の仕上げにかけた。白飯と一緒にテーブルに運ぶと男女の客は期待感でいっぱいの目を見張り、少々ぎこちなく箸を使って食べ始める。その途端、うんうんと満足気にうなづいた。
徐々に客が増えていくかもめ食堂だが、サチエはなかなか注文の入らない「おにぎり」をメインメニューと決めて譲らない。おにぎりの具にも、彼女の強い思い入れがある。
「やっぱりおにぎりは、梅、シャケ、おかかだと思います。ここにいても。どこにいても。」
「おにぎりは日本人のソウルフードでしょ」というのがサチエの口ぐせだ。そのこだわりの理由は、おにぎりは彼女の父親が作ってくれた唯一の食べ物だったことがやがてわかる。サチエにはサチエの、物語がある。
そんな折、ついにおにぎりがオーダーされる日がやってきた。日本から旅行に来たばかりのマサコ(もたいまさこ)が、迷いなくおにぎりを注文したのだ。
サチエは左右のてのひらで白飯をぎゅっぎゅっと握り、形を整えていく。ちょうどよく切りそろえた海苔をてのひらに載せ、おにぎりを置いてから上に向けて海苔で包む。三角形のおにぎりの側面に四角い海苔がはりついた。青色のうずまき柄の皿に三個のおにぎりが整列するさまは、どっしりと存在感たっぷりだ。
マサコの前に差し出されたおにぎりが、店の客たちの目をくぎ付けにする。黒白のモノトーンの三角形の食べ物は、不思議な物体なのだろう。マサコは意に介さず両手でおにぎりの底の部分を持ち、嬉しそうに三角の頂点からおにぎりをかじる。ごはん粒の中から具が見えてくる。
物語の終盤、15個ものおにぎりが登場するシーンが圧巻だ。ヘルシンキで出会った3人の日本女性たちは、自分たちと客のためにもくもくとおにぎりを握り続ける。大きな丸い竹ざる、手を湿らすぬれぶきん、塩と具の入った容器。おにぎり用の海苔は、赤地に白い水玉の可愛らしい缶に入れてある。彼女たちのあうんの呼吸と連携プレーで、おにぎりができあがっていく。みるみる竹ざるがいっぱいになった。
それぞれに事情を抱えかもめ食堂にやってきた客たちと、サチエたち5人は全員でテーブルを囲む。両手でおにぎりを抱えるように包み込み、もくもくと食べる。ぎすぎすしていた場の空気が、一気に緩んでいく。
静かだが意志を持ち、おにぎりを作り続けるサチエの食堂。そのすべての席が、客で埋まる日はもうすぐ。そこでサチエのおにぎりを食べたヘルシンキの人々は、また新たな思い出をおにぎりに込めていくことになるのだろう。
文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ