2020年12月号の第一特集は「おいしい店100」です。世界を自転車で一周した旅行作家の石田ゆうすけさんが、旅の中で一番おいしいと思った肉に出会った地はアルゼンチンだといいます。世界一といっていいほど圧倒的な旨味を持った肉料理とは――。
自転車世界一周の旅で最も旨いと思った肉は、アルゼンチンの南部パタゴニアの仔羊だ。パタゴニアは羊の放牧が盛んで、羊肉がよく食べられている。
パタゴニアでは一度、大雪に見舞われたことがあった。テントを張っても雪で押しつぶされそうな降り方だ。
日が暮れ、暗くなり始めたころ、山小屋のような一軒家が現れた。避難小屋のようだ。すがるようにノックする。おじさんと若者が顔を出した。僕の表情と雪の降り方を見て事情を察したのだろう。家に入るよう促した。
避難小屋に見えた建物は、遊牧生活をする彼らガウチョたちの仮住まいだった。居間には大きな薪ストーブがあり、肉の焼ける匂いが部屋に充満している。これから食事だったようだ。
ストーブの鉄扉が開けられ、天板が取り出された。巨大な肉塊がのっている。肋骨が見える。仔羊のようだ。若い男がナイフで大雑把に切りわけ、僕にも勧めてきた。
彼らと同じように、僕も骨付き肉を手でつかみ、マグロの頬肉に見えるその赤身の肉にかぶりつく。ブリンという感触が歯に伝わり、バターのような濃厚な味とナッツのような香りが広がった。赤身なのにすごいコクだ。臭みなど微塵もない。羊特有のクセがきれいな旨味に変わっている。
味付けは岩塩だけのようだった。もとより肉の旨味が強ければ塩だけが一番なのだろう。
「ここが旨いから食ってみろ」
男たちは肋骨についた薄い膜を指差した。噛むとパイ皮のようにパリパリ音が鳴る。焼いた肉の香ばしさが詰まっている。
天板には透明な肉汁がたまっていた。パンにつけて食べると、ふっくらした味がパンと混じり合う。バターもオリーブオイルも目じゃないなと思った。
部屋には裸電球だけが灯っていた。男たちの顔、肉塊、薪ストーブ、あらゆるものがレンブラントの絵画のような陰影に覆われている。その中で僕たちは肉塊を囲み、原始人のように手づかみで骨にしゃぶりつく。外は一面の銀世界……。
その18年後、雑誌の取材でアルゼンチンを再訪し、パタゴニアの町カラファテにも足をのばした。
街の変貌ぶりに驚いた。以前は荒野にぽつんと置き去りにされたような町で、西部劇の寂れきった村を思わせたが、今は観光客向けの店が並び、華やかな雰囲気になっているのだ。近郊には氷山のような山や氷河の絶景があり、もともと観光ポテンシャルの高いところではあったが、ここまで開かれてしまったか、と思った。
町一番といわれるレストラン「ラ・タブリタ」に羊を食べにいった。
パタゴニアの仔羊はコルデロ・パタゴニコという名の高品質なブランド肉だということを、このとき聞いた。不毛の荒野で放牧するため、羊は草を求めて長距離を移動する。強風、寒冷といった過酷な環境も手伝って、脂身の少ないきれいな肉質ができあがる。しかも天然の草だけで育てるため、オーガニック。ふむふむ。
「ラ・タブリタ」では、僕が以前食べたものよりさらに豪快な形で調理されていた。焚き火の一頭焼きだ。子羊を腹から割いて開き、四肢を棒に結わえ、ムササビの飛行姿勢のような格好にして焚き火のまわりに立てる。ガウチョスタイルとでも呼ぶべきこの焚き火焼きが、今ではパタゴニア名物のようになって各店で行われ、ショーウィンドウ越しに披露されていた。
焼かれた肉は包丁で骨ごとガンガンと断ち切られ、皿に荒々しく盛られて出てくる。サービスの行き届いた高級店だったが、肋骨まわりはやはり手づかみでかぶりつく。上等なレストランだろうと、ガウチョの家だろうと、食べ方は変わらないのだ。
旅先で食べて感動したものを後日あらためて食べにいったら、それほどでもなかった、ということがままある。思い出はどうしても美化されるし、旅先で食べるものは、そこにいたるまでのドラマがあるから、味も何割か増しになる。それに自転車旅行の場合だとなおさら、異常に腹が減るので普段の何倍もおいしくなるのだ。
にもかかわらず、このとき食べた「ラ・タブリタ」の仔羊は、思い出をいささかも下回らず、取材であることも忘れて、僕はその旨さに没入した。あるいは、自転車旅行のときより恍惚となっていたかもしれない。焚き火で焼かれた肉は、スモークの香りが加わって一段と食味が上がっていた。その肉を頬の内側で転がしながら、アルゼンチンの代表的な品種マルベックの赤ワインを口に含む。濃厚な果実味とタンニンが羊肉のコクと溶け合い、えもいわれぬ豊饒が広がっていく。こんな幸福があるだろうか? ゆるみきった顔でそんなことを思う。肉自身に圧倒的な力があれば、食べる側のシチュエーションなどまったく関係ないのだった。
文・写真:石田ゆうすけ