2020年9月号の第二特集は「ぶっかけ」です。中央アジアはさまざまな人種や文化、そして食までもが融合した面白い地域だと石田さんは言います。そんな中央アジアの一国、キルギスでまさに「融合」を表したかのようなぶっかけ麺料理に出会いました――。
中央アジアは文字通りユーラシア大陸の中央にある5つの国のことだ。ここがおもしろい。まさに西と東が混じっている。文化だけじゃない。人の顔にも融合が見える。中東系の濃い顔に見えて目が日本人だったり、逆に完璧に日本人の顔なのに目が青かったり。この感動が文字でどれだけ伝わっているだろうか。実際目の当たりにした僕は、計りしれないロマンを感じたのだ。巨大なうねりのような民族大移動、その交差点なのだここは!……なんて。僕自身が自転車で地を這うように旅しているから、よけいに民族の移動や融合を肌で感じ、痺れるのかもしれない。
なかでもキルギスはエキゾチックだった。東アジア系の顔の人は、本当に日本人に似ている。中国人や韓国人以上かもしれない。そんな彼らが山高帽のようなフェルト製の白い伝統帽子「カルパック」をかぶっているのだ。
民族衣装の視覚的効果はたいしたものだ。村に入って村人全員がカルパックをかぶっているのを見ると、「別世界に来た!」とゾクゾクし、高揚する。
ソ連時代の社会主義体制の影響もあるのか、人々は非常にのんびりしていた。そしてどういうわけか、底抜けにやさしかった。
野宿する際は安全を確保するために、人家から見える野原に野営地を定め、家を訪ねて自己紹介、ということをしばしばやっていたのだが、「テントなんかいいから家に泊まっていきな」
高原の村で泊めてくれた家には年頃の娘さんがいた。彼女は突然の珍客を喜び、キルギスの民謡を歌ってくれた。かすかに肌が粟立った。哀調ある旋律が『七つの子』とどこか重なって聞こえたのだ。アジアの真ん中にいる……。そう感じながら、高原の空気に溶けていくような歌声に耳を傾けていた。
僕は辞書を片手に片言のロシア語で彼女と会話した。彼女は学校のクラスメイトたちともロシア語で話すという。ところが、母親とはカザフ語で、父親とはキルギス語で話すというのだ。家という社会集団の最小単位の中にも、“融合”が見えるのだった。
そんなキルギスのバザール(市場)で、日本の「ぶっかけ」のような冷たい麺を見た。奇妙な麺だった。ラグマンという中央アジアのうどんとよく似た(あるいは同じ)麺の上に、ところてんのような半透明の麺がのっている。ひとつの器に二種類の麺が入っているわけだ。そういう料理は日本にも海外にもあまりないような……。
ところてんに似たほうはツルツルして、うどんに似た麺のほうはやはり細いうどんのような食感だった。2種類入っているから変化を楽しめる、といえば楽しめるかな?
スープは酸味があってピリ辛。韓国の冷麺を思わせた。中央アジアには朝鮮人も多い。店のおばさんに「この料理は朝鮮のですか?」と訊くと、おばさんは「違うよ、キルギスのだよ」と答えた。
あとでわかったことだが、これはアシュリャンフーというドンガン人の料理らしい。ドンガン人というのは19世紀以降、中央アジアに移住してきた中国系ムスリムだ。
このあと中国の彼らの故郷で、同じような麺を見た。涼粉という。読みはリャンフェン。ふむ。
ただし、中国の涼粉はところてん様の麺のみ。うどん様の麺との2段重ねは、店のおばさんが言ったように確かに“キルギスの料理”なのかもしれない。
麺の器という小さな世界の中にも、おかしくなるくらいくっきりと、文化の融合が見てとれたのだった。
文・写真:石田ゆうすけ