実家暮らしでフラフラしていた時のこと。店のまかない目当てに、とある飲食店でアルバイトをしていた。50代のオーナー店長T氏は、親から継いだ土地で、悠々自適のひとり暮らし。朝からゴルフに出掛け、こんがり焼けて帰って来たかと思えば、バックヤードでいびきをかいている。珍しく店頭に立ったかと思えば、テイクアウト用のパックを拵え、いそいそ夜の街へと出掛けて行った。近くのフィリピンパブだ。だが、彼が出す求人は必ず「外国人不可」だった。
それから何年か経ち、長いこと恋人がいなかったT氏に、本気で好きな女性ができたようだった。相手も、満更でもないらしい。聞けばそれはフィリピン人で、年がだいぶ下である。誰もが、彼の財産目当てであることを想像した。それからほどなくして、私はアルバイトを辞めてしまったが、数年ぶりに店へ行くと、外国人女性が笑顔で店頭に立っていた。T氏と同じ名字の名札を付けている。明らかに、いちばん仕事ができる様子で、店のムードメーカーでもあるようだった。他にも、別の国籍と思しきアルバイトを見かけ、時代の変化を感じる。彼女が彼の意識を、変えたのかもしれない。
小説『逃亡者』は、第二次大戦中の軍楽隊が使用した、伝説のトランペットを巡る物語だ。フリージャーナリストの山峰は、取材で訪れたフィリピンで、ベトナム人のアインさんと出会う。自分のルーツに関わる日本に惹かれていた彼女は、その後、留学生となり、二人は日本で再会した。
山峰が連れて行った寿司屋では、日本通っぷりを発揮して、ワサビも抜かずに寿司を食べるアインさんだったが、密かに綴っていたノートからは、ワサビをやせ我慢していたことがわかる。タマゴや、甘い穴子が気に入ったようだ。そして、つい舞い上がってしまい、山峰に「おいしい」と伝え忘れたことを後悔している。
私はアインさんの心の裡を知ることで、あのT氏の店で働く外国人女性が、どんな思いでそこに立っているのかを初めて想像した。それは、全くの見当違いかもしれないが、決して無駄な行為ではないだろう。
私の中には、容易に消し去ることのできない差別意識がある。 だが、私はそれを、決して許してはいけないのだ。
文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子