カメラマンが、いつかまた食べたい料理
クジラレンコン、そうめん、うなぎ|カメラマンが、いつかまた食べたい料理

クジラレンコン、そうめん、うなぎ|カメラマンが、いつかまた食べたい料理

カメラマンの公文健太郎さん。今、食べに行きたい、会いに行きたい料理はなんですか?と聞くと……。

公文健太郎さんが食べに行きたいのは――。

土曜日の放課後、ランドセルを背負った僕は、一目散に家を目指した。昼ご飯をかき込んで、またすぐに通学路をかけて戻り、誰よりも早く戸を叩く。外で遊ぶことばかりで、習い事全般が大嫌いだった僕が習字教室に通えたのは、一番に戸を叩いた者だけ許された甘いご褒美が目当てだったからだ。

おばあさん先生はいつも奥の部屋で自身の昼ご飯にと餅を焼いていて、それを一つご褒美にくれた。山盛りの砂糖を加えた醤油をびったりとつけて、2番手が来る前にぺろりと食べた。僕の家では許されなかった(今思えば発想としてなかった)砂糖醤油。その味が僕の味の原体験のように思う。以来僕は甘醤油に弱い。

2020年春。家に籠ることを強いられた僕が今食べたい3皿について書こうと思う。

佐賀・白石町 渕上家のクジラレンコン

佐賀・白石町 渕上家の人
佐賀・白石町 渕上家
佐賀・白石町 渕上家のクジラレンコン
一皿目は佐賀のレンコン農家渕上家のクジラレンコン。渕上家は、10年ほど前に取材したことをきっかけに僕の第2の故郷となった大切な場所だ。九州へ出張に行った時は、「ちょっと寄らせてください」と一本電話を入れ、遠い時は2時間かけて回り道をし、ご馳走になって帰る。佐賀のレンコンは白石の干拓地で採られるものが有名で、泥の中で育った真っ白なレンコンは柔らかく、砂地で育つレンコンとは違う柔らかな食感が特徴だ。レンコン料理にとって大切なのは料理に合わせてレンコンの節を選ぶこと。先は柔らかく酢蓮などにむき、根元に近い節は煮込むとねっとりとする。この根元の節をクジラと煮付けた煮物は、クジラの風味が香り、僕の大好きな甘醤油がしっかりと染み込んでいる。お母さんの手料理は、甘い物好きのお父さんの好みに合わせた、少々、いやしっかり甘めの味。お父さんだけではなく、僕もそのファンの一人になった。 夏が近づくとレンコン農家は忙しくなる。遮るもののない干拓地。炎天下の中、上から、そして水面からの照り返しと、暑さとの戦いだ。暑さがすこし落ち着く秋になるとレンコンも土の中で熟成し始め、柔らかさが増す。その頃には行けるだろうか。

高知 実家のそうめん

高知 実家のそうめん
二皿目は、皿というには大きすぎる、豪快すぎる鉢。 僕の父親は高知県の育ちで、僕が小さかった頃、毎年高知に里帰りしひと夏を過ごした。その夏の定番といえば、鉢に入ったそうめんだ。高知の里帰りといえば、というイメージに違わず、我が家も昼間から親戚一同集まって宴会が催され、酒屋が日に何度もケースを抱えてやってきたのを子供ながらに覚えていた。そんな宴会の最中、僕たち子供が食べるのがそうめんだった。おーきな鉢一杯。ひたひたのつゆとそうめん。その上に山盛りの錦糸卵ときゅうり、細く切ったうなぎの蒲焼き、そして濃く、甘醤油で味付けされた椎茸がのる。それを親戚中の子供たちみなでつつく。麺は伸び、汁は薄まっているのだが、小さなうなぎと甘いしいたけがそれをおぎない、うまかった。 これが高知の子供向け皿鉢料理。大人たちはたった一つの鉢で子供たちを満足させ、宴会に興じる。 書いていて思い出したが、僕が所帯を持った時、最近亡くなった高知の叔母が大きな漆の鉢を贈ってくれた。人が集まる明るい食卓になりますように。そう願ってのことだろう。一つの皿を、鉢をみんなでつつく。そんな時が早く戻ってくることを心から願う。

宮崎の山の中で食べたうなぎ

宮崎の山の中
宮崎の山の中のうなぎ
宮崎の山の中のうなぎ
宮崎の山の中で食べたうなぎ
三皿目。これも皿とは呼べないかもしれない。宮崎の山の中で食べさせてもらったうなぎ。 旅路で出会った男が川のことをたくさん教えてくれた。生き物の習性、流れの質、水温、時間との関係、昔話。そして川を知り尽くした男は、地域のうなぎ捕り名人でもあった。今や天然のうなぎは絶滅危惧種とされ貴重なものとなったが、おじさんが小さい頃は、川辺の岩一帯を埋め尽くすほどうなぎがどっさりいたという。環境の変化がですっかり減ってしまったと言いながらも、だからこそうなぎ捕りには腕がいる、という表情だった(放流を行い厳格にルールを守り行われる漁です)。朝、前日アブラハヤを餌に仕掛けておいた針を引き上げる。緻密に計算されたポイントに仕掛けられた竹竿の先には、見事に太いうなぎがかかり、針の先で力強くくねっていた。炭を起こし、なんどもタレをつけて焼く。僕の大好きな甘醤油がジュウジュウ音を立てて滴った。テカテカに光ったうなぎの蒲焼は皿にはのせない。そのまま網の上から白飯へ。食物を採る名人は食べさせるのもうまかった。

今は東京の自宅でゆっくりと過ごしている。妻のつくる絶品3皿についてもいつか書いてみたいが、旅先の飯はそこに出会いがあり、スリルがあり、驚きがあった。うまいもののことを思い出すと早く出かけたくなるばかりだが、今は書道教室はおろか、駄菓子屋にも通えない子供たちが家で過ごすことを楽しもうと努力している。僕のようにうまいものためにかける子供が自由に走っていける日が早く来ることを祈りつつ、大人はそんな子供たちのために、家の台所で奮闘するとしたい。

写真・文:公文健太郎