はらぺこ本屋の新井
まぼろしの蒸気で蒸す卵

まぼろしの蒸気で蒸す卵

新井さんが働く書店も、臨時休業中。体は家にいるまま、心は漫画で読んだ秘湯へ……。

冷凍庫の奧で霜に埋まりかけていたポリ袋は、大量の「くるみ」だった。殻ごと半分に割った状態で凍っている。味噌にしてごはんに乗せても、甘くして餅に絡めても美味い。山形の肘折温泉で、ちんまりと路上に座った朝市のおばあちゃんが、きつい訛りでそう教えてくれたのだ。

一緒に買ったしそ巻きは、そのまま宿の朝食に加え、お給仕さんに笑われるくらい、ご飯をおかわりした。素朴な餅を笹で包んだ「笹巻」は、甘いきなこをたっぷり付けて食べると、もうおやつは一生これだけでいい! とすら思った。ドバドバと縁から溢れ続ける温泉に浸かり、本当の暗闇になる夜を、宿の窓から見下ろした。それは、都心の書店で働き、下町の小さなアパートで眠る私にとって、たった2泊3日の非日常だった。

あれから半年、思いがけぬ休暇が発生し、私の意志とは関係なく日常を失った。でも、毎日乗るはずの満員電車も、新刊を並べる棚も、10日経てばそちらが非日常に思えてくる。日中は家に引きこもり、真夜中の散歩に出掛ければ、すれ違うのは、私を警戒する猫さんだけ。コンビニで卵を買ったら、店員さんは透明のビニールシートの向こうにいて、マスクの内側で何かモゴモゴ言っていた。これが今の日常である。

散歩から戻り、眠気もやってこないので、あの「くるみ」をどうにかすることにした。楊枝を刺すと身が砕け、部屋中に欠片が飛ぶ。ムキになったら、今度は楊枝が折れた。全然上手くいかない!

これほど何かに集中したのはいつぶりだろうか。机に敷いたチラシの上で、山盛りの剥きくるみが、朝の光を浴びていた。

『49歳、秘湯ひとり旅』には、非日常を求めて訪れたくなる、味わい深き温泉地が登場するが、中でも熊本県の杖立温泉は、強い印象を残す。

連休前の平日ともあって、泊まった宿に、お客は自分ひとりだけ。赴くままに路地裏を歩き、ふと立ち寄った共同浴場は貸し切り状態。偶然立ちはだかる巨木を、気が済むまで見上げるような、自分自身に耳を傾ける旅。

高温な湯が豊富に湧く杖立には、温泉の蒸気を利用した蒸し場がある。旅人用に、卵や芋の専用セットが販売されているが、地元の人は、食卓に並べる素材を蒸して、持ち帰るのだろう。近所に蒸し場がある生活は非日常だが、それを日常とする人もいる。そして、日常と非日常は、意外と簡単に入れ替わる。

コンビニで買ったこの卵を、小さな鍋で茹でるのではなく、温泉の蒸気で蒸す自分を想像した。長い休暇、ひとりきりの静かな夜。

今回の一冊 『49歳、秘湯ひとり旅』松本英子(ソノラマ+コミックス)
脱日常――。これまでのこと。これからのこと。
新潟県・貝掛温泉、山形県・姥湯温泉、福島県・甲子温泉……。じんわりと滲みるオアシスの中で、湯けむりの彼方に見えたもの。地元の人と触れ合い、特産も堪能。土地の風味もいただきます! 旅と温泉愛がぎゅっと詰まったコミックエッセイ。

文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子

新井 見枝香

新井 見枝香 (書店員・エッセイスト)

1980年、東京生まれ下町(根岸)育ち。アルバイト時代を経て書店員となり(その前はアイスクリーム屋さんだった)、現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。独自に設立した文学賞「新井賞」も今年で13回目。著書に『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)など。