最後の「カシミール」。
最後のひと皿も、旨くて旨くていつもよりも早く食べてしまう。

最後のひと皿も、旨くて旨くていつもよりも早く食べてしまう。

1978年創業。神奈川県横浜市、JR鴨居駅の駅前にあったカレーハウス「カシミール」。最終営業日の2020年2月29日。36年に渡って通い続けた僕が最後に食べたのも、やっぱりカシミールカレーだった。

閉店の報は瞬く間に広まり、それまでにも増してお客さんが押し寄せていた。

何度、僕は、このカレーハウスを訪れただろう。こんなカレー、ほかになかったのだ。
けれど、もう、過去形になってしまった。

店を閉めると聞いて、僕はそれまで以上に「カシミール」に通った。躍起になっていた。すきあらばカシミール。昼食べて。取材に出て帰ってきて夜もカシミール。家族もここのカレーが大好きだったから、気がついたら、そのせいばっかりじゃないだろうけど、家族全員ちょっと太った。
いいんだ、いまカシミールを食べておかなかったら、会えなくなくなってしまうのだから。

閉店の案内

あと数日で閉店という日、久しぶりにカウンターに陣取って食べた。閉店の報(しらせ)は瞬く間に広まったのだろう。毎日、それまでにも増してお客さんが押し寄せていた。忙しい。
すると、いきなりお客さんの1人がお盆をもって配膳をはじめ、オーダーも取り始めた。
手際は最高。高校時代にこの店でアルバイトをしていたというナオちゃんという女性だった。いま大学院生というお嬢さんをつれて、久しぶりに店を訪れ、店主の輿石州司(こしいししゅうじ)さんの忙しさを目の当たりにして、すぐさま昔取った杵柄をとったというわけだ。

忙しい店内
店主の輿石州司さんの隣に立つ女性が、高校生の頃この店でアルバイトをしていたナオちゃん。輿石さんの娘のゆみさんも応援に駆け付けた。

ナオちゃんの腕前にも驚いたけれど、さらに喫驚(きっきょう)したのは、もうずっとここで仕事をしていなかったというナオちゃんが、棚から、必要なものをすべて迷うことなく揃えられたことだ。いつも、器も調理器具もカトラリーもすべて、1mmも違わず整頓され続けてきた証明だった。
来るたびに、茶室の水屋みたいに、いつも、整理された厨房に見とれていたけれど、ほんとうに何もかも完成されていたのだ。

最後に、僕が注文したのもカシミールカレーだった。

最終日は2月29日だった。すぐに店は満席。店前には行列ができた。その中には、いつもカシミールカレーを2杯食べていく猛者な常連さんの顔もあった。あの人も見たことがあるな、という人がいた。『dancyu』2017年6月号のカレー特集号に掲載された拙稿をきっかけに通うになったというお客さんもいた。嬉しかった。

行列
「カシミール」閉店の噂を聞きつけた常連客が列をなす。
混む店内
全席満席。最終営業日はひと際目の回る忙しさ。
胡蝶蘭
閉店を惜しむお客から贈られた花々が店に飾られる。
花束
忙しいスタッフ
輿石さんの娘のゆみさん、妻のアサ子さんも共に店に立った。開店から閉店まで、息つく暇もないほどの忙しさ。
客
客
客
客

最後に、僕が注文したのもカシミールカレーだった。
旨くて旨くて、いつもよりも早く食べてしまう。
さらりとしているけど、野菜とスパイスの粒を感じさせる。なんだろう、ホームスパンみたいな、素朴なのに美しいテクスチャー。香りは刺激的な辛さと野菜の旨さとが絡み合う。そして、この色!黒と赤と茶色とが、複雑にからみあって、カシミールカレーというタペストリーに織りあがっている。それに、どんな時間帯に行っても、ご飯の炊き加減は最高だったけど、この日も、しっとりとパラリがギリギリ拮抗する絶妙な塩梅。それを思い切りよく、惜しげなくまぜあわせて、口に放り込む。

カシミールカレー
家族
息子

「辛い」も「旨い」もすべての具も、カシミールカレーという宇宙に役割をもって存在している。

旨い。僕のカレーライフの、やっぱり、中心にあったカレーはこれだ。かなり辛い。けれど、その辛さは、今日の「挑む」ためだけの辛さなんかとは全然違う。この辛さは、全部、旨いのために存在している。ジャガイモだって、ニンジンだって、鶏肉だって、全部そうだ。このひと皿の、カシミールカレーという宇宙の中に、それぞれに役割をもって存在している。

カシミールカレー

咀嚼したくない。
これが、最後のひと皿だなんて。いや、忘れよう。いま、このひと皿に、集中しよう。
旨い。旨い。旨い。
結局、いつもより、早く食べきってしまった。

空になった皿

7歳の息子が輿石さんに書いた手紙を渡し、店を後にした。輿石さんは、大挙したお客さんのために鍋に集中していたので、妻のアサ子さんと娘のゆみさんにその手紙を託し、ちょっとだけ世間話をした。
ゆみさんは、レシピは習っておきます、と頼もしいことを口にしてくれた。「そのとき」は「カシミール パート2」として出店すると笑っていた。

絵
小学1年生の息子が輿石さんに書いた手紙。夏休みの自由研究もカレー。それも、すべて「カシミール」でカレー好きになったから。

それから、厨房の輿石さんの背中にむかって、頭をさげた。さようならという言葉がよぎったけれど、それは違うと思った。カシミールにさよならは似合わない。だから、こう、胸の奥で言ったのだ。
ありがとう、そして、ごちそうさまでした。

建物外観
見慣れた黄色の看板「カレーハウス」をつい探してしまう。「カシミール」は、年々入れ替わりが激しくなった駅前ビルで竣工からずっと続いていた。
輿石さん
2020年3月3日。閉店後の後片付けをする輿石さんに会いに行った。白衣を着ていない輿石さんは、いつもより柔らかな表情を浮かべていた。
手紙
最終日、お客さんからもらった手紙。中身はもちろん内緒。
メニューをはがした壁
メニュー札の剥がされた壁。日焼けの跡が歴史を物語る。
食器棚
いつも整頓されていた棚。1度も注文したことがなかったウイスキー、頼めばよかった。
看板
この看板の灯りが消えたとき、「カシミール」の歴史に幕が下された。


――おわり。

文:加藤ジャンプ 写真:石渡 朋

加藤 ジャンプ

加藤 ジャンプ (文筆家)

1971年東京生まれ。横浜と東南アジア育ち。一橋大学卒業後、出版社勤務をへてフリー。酒と酒場、肴と酔っ払いを愛し、コの字酒場探検をつづける。著書に「コの字酒場はワンダーランド」(六耀社)などがある。テレビ「二軒目どうする?」(テレビ東京系)のおつまみさんとしても出演。ときどき絵も描く。