シリーズも第3回目に突入。とかく珈琲道になりがちなコーヒーの世界で、適度に距離をおくというか、独自のスタンスでコーヒーと向き合っている「ツバメコーヒー」の田中辰幸さん。コーヒーに辿り着くまでの道のりは、じぐざぐじぐざぐだったのです。
田中さんは1978年生まれ。
両親は、田中さんが小学2年生のときに離婚をした。それから母と母方の祖母との3人暮らしがはじまる。自動車整備工だったという父とはそれきり疎遠になっていたが、10年程前に、亡くなったという報せを受けた。以来、毎年墓参りをしている。
お母さんはどんな方なんでしょう、と訊ねると、田中さんがいつもよりゆっくりした語り口で、淡々と語ってくれたその人となりの中には「男勝り」という形容があった。それから「花が好きだった」とも。
母は、8人兄弟の末っ子で、中卒で美容師になりました。5年くらい修業して二十歳でお店を出して、パリに行きたいという夢を持って、お店の名前を『パリ美容室』とつけたんです。僕が生まれたときには1階が美容室で2階が住居という職住一体の形態になっていて、僕も美容室の中で走り回っていて。離婚するのをきっかけに、すぐ近くに新たに美容室を出して、家はまた別の場所に建てました。
田中さんはその家に、妻と息子と3人で、今も暮らしている。築30年を超えたこともあり去年リフォームをしたという。
1997年、田中さんの母は郊外に新天地を見つけ、それまでよりも広く、中庭もあって、ゆったりと過ごしてもらえる美容室をつくろうと計画する。そこは現在、ツバメコーヒーがある場所だ。
駅前の商店街からロードサイドへの移行期、そのはしりだったという感覚はあります。今は住宅が少しありますけど、その頃は陸の孤島みたいでした。時代背景と本人の努力がマッチしたとはいえ、一代で、旧市街から今の場所に、メインバンクを替えてまで、一億近いお金をかけて移転できるっていうのは、なかなか簡単なことではないと思うんです。
この場所をつくった数か月後に癌が発覚したという状況で、僕が二十歳のときに母は亡くなりました。死期が見えるところで、ひとりっ子の僕が継ぐしかない、継いでね、って言われて。京都産業大学の2年生のときです。もう難しいと言われていた母の近くにいられる、ということもあるし、休学して新潟に帰ってきて、4月に美容学校に入りました。母が亡くなったのが6月です。晩年は健康に気を遣っていた母だったんですけどね。ここを建てるときに相当なプレッシャーがあったのかなあって、今は思うんですけど。
美容師免許を取ったのち、田中さんは大学に復学し、再び京都で2年を過ごす。そのあいだ、美容室を切り盛りしてくれる人たちがいたからだ。卒業し、燕に戻ったのは2002年のことだ。
就職もしたことなくて、23歳で帰ってきて、親がやってた美容室に入って、そこにいるわけですけど、自分はなんの価値もつくれない。帰ってきたときに15人いたスタッフが、2013年には2人になっていました。
田中さんより10も20も年上の美容師たち。その人たちとの関係性について、田中さんは「使いこなすことができず......」と言ってから「うまく共感し得ることができず」と、言い直した。
それぞれの役割を見出すことができずに、それぞれが独立して離れていった。経営は徐々に傾いていくわけです。この場所は、うわものにお金を掛けちゃったんで、下の土地は借り物なんですよね。それなりに固定費を払っていかなきゃならないのに、10年間でたった2人になったら、どんだけあたふた働いたところで、もう赤字確定みたいになるじゃないですか。あり得ないわけですよ。
焦燥感はいかばかりか。
その10年間、田中さんは二代目社長として、そして美容師としてどんな風に立ち働いていたのだろうか。そう、田中さんが美容室での仕事、たとえばカットや毛染めについて目を輝かせて話す場に私は居合わせたことはないのだが。
物理的に人がいなくて、シャンプーをしたり、床を掃いたりもしていた時期はありました。経理もしてましたね。数字とかほんとに苦手だけど、でも必要だから、決算の前になってふらふらでやるものの、帳尻を合わせていく喜びは僕にはないですね。あるいは、マネジメント能力といわれるようなものが、僕にあればよかったんですけど。盛り立てて、売り上げを出させる力があれば。
ただ、この場所で僕が美容師になる以上のことはないわけです。そうしなかったらこの美容室は維持できないという状況が突きつけられているわけで。自分が継いで、お前しかいない、お前がやらなかったらこの場所なくなるって、そこまで切羽詰まったら、人間やるでしょ。それでやらない僕ってすごいクソだなと思いながら。
加えて「根性なし」「根っからの不器用」と、田中さんの口からは自嘲の言葉がこぼれ出る。
友達が、カットを教えてやるから来いと言ってくれて、課題とか出されて、モデルも呼んでくれて。それぐらい協力的な人たちが周囲にいながら、やっぱ俺できねっす、って。やっぱり美容が好きじゃないって。全然、練習をちゃんとしきれない自分がいる。そこから逃げようとする自分がいるわけで......じゃ、お前、やめれば?と、なるわけです。
「やめれば?」との誘いかけに、聞いているこちらもついぎくりとする。しかしこれは数年前の話で、喫茶室にあるはめ殺しの小窓からは、壁一面の本棚の向こうにある美容室の様子が見える。うん、やめては、いない。ならば「やめれば?」と自問するまでになったとき、田中さんはどんな答えを返したのか。
この場所を更地にして返して、別のことをやろうということも、もちろん何度もね、考えたわけですよ。正直、それはどれだけたいへんなことか分からないだけに、こわい。あまりにこわいから、どうやってやっていこうか、活かしていこうかといろいろ考えるわけですよね。なんとか、どうにかここで、この場所が必要とされるくらいの売り上げが上がるような方法ってなんだろうかと。
まあ、そういう中で結局、コーヒーに辿り着くんです。とりあえず、僕自身が売り上げをつくらなければ駄目だと思ったんですよ。みんなを伸ばそうなんて言って、伸ばせる能力がない奴がそう言ってもしょうがないんだから。髪を切るってところには関われなくても、お客さんに喜んでほしいから、おもてなしを考えるわけですよね。自分がいろいろな場所に行っておもてなしのピースみたいなものを集めてきてこの場で実現することで、やっぱりあそこわかってるって言われたいとか。まあ、それしかできないんで。
4話につづく。
文:木村衣有子 写真:当山礼子