名古屋駅を出発したら、まずは駅弁とビール。車窓を楽しみながら紀伊勝浦へ向かう。生まぐろで有名な漁港の朝市を訪ね、熊野古道を歩き、帰りの列車では地酒を飲みつつ地元ならではのさんま寿司の入った弁当を頬張る。行きも帰りも移動時間そのものが楽しみになる、特急「南紀」で大人の鉄道旅へ出かけませんか。
「旅することは食べること」。そんな信条を持つ私が前々から行ってみたかったのが和歌山県の那智勝浦だ。はえ縄漁法によるまぐろの水揚げ量で全国トップを誇るこの地では冷凍していないもちもちの生まぐろ丼が食べられるというし、郷土料理のさんま寿司にも興味津々。ついでといってはなんだけれど、腹ごなしを兼ねて世界遺産の熊野古道も歩いてみたい。
そんな食い意地全開の旅は名古屋駅から始まった。那智勝浦までの交通手段はいろいろあるが、名古屋から特急「南紀」で行くのがベストチョイスだろう。特急「南紀」なら紀伊勝浦駅まで乗り換えなしで一本。乗車中は本を読んだり、音楽を聴きながら車窓の景色を眺めたりと思いのままに過ごせて、お酒とつまみを持ち込めばプチ宴会なんてことも。列車で過ごすその時間が旅をより豊かに印象深くする――。それがJR東海の提案する列車旅「TAVISIT」だ。紀伊勝浦駅までの約4時間をそっくり自分時間に使えるなんて、なんだかワクワクしてくる。
車内での過ごし方を考えながらホームで待つと、乗車する「南紀」3号が入ってきた。列車の顔つきがどこかアニメのキャラクターっぽくてほっこり。聞けば、この車両は2023年から特急「南紀」として運行を開始した“HC85系”。座席やテーブルが広く、電源コンセントも完備された最新鋭のハイブリッド方式の鉄道車両だという。乗り心地も向上しているというから期待は高まるばかりだ。さぁて、いよいよ出発!

列車が動きだしたらなにはさておき腹ごしらえを。座席のテーブルに並べたのは出発前に買ったひつまぶしの太巻きとエビフライサンドだ。せっかくなら名古屋めし的な駅弁を……と選んでみたのだが、我ながらナイスな布陣。パクッと頬張って冷えたビールをグビッと飲めば、肩の力がふわーっと抜けていく。

快適な車内ではビールを飲みつつ“積読”だった本を読んだり、ダウンロードしてあった映画を観たり、時々うとうととまどろんだり。パソコンを手放せない日常から解放されるひとときは、まさに列車旅リトリートだ。
その間にも車窓の風景は、ビル群から家並み、田園、渓谷、海岸線とドラマチックに変化していく。ときめく景色を見つけたらスマホでパチリ。食べ物ばかりの画像フォルダに絶景が加わっていくのが楽しい。とりわけ、おぉ! と歓声を上げてレンズを向けたのが熊野川を通過する瞬間だ。突如、視界が開けて雄大な川の流れと熊野大橋が山並みをバックに美しくコラボ。この熊野川は県境でもあり、渡り切ったらいよいよ三重県から和歌山県へ。終着点の紀伊勝浦駅まであと少しだ。その高揚感を盛り上げるように、白い砂浜とコバルトブルーの海がキラキラと車窓を染める。ここからは本もスマホもそっちのけ。4時間のフィナーレにこんな美景が待っていたとは!


初めて降り立つ紀伊勝浦駅は2階建ての駅舎とゆったりとした駅前のロータリーがシンボル。その先には勝浦港までまっすぐ延びる大通りや昭和レトロなアーケード商店街“いざかた通り商店街”などいく筋もの通りが開けている。

まずはぶらぶらと街なかを散策してみると、昔ながらの渋い土産物店、鮮魚店、喫茶店、居酒屋などがポツリポツリとあって、昭和の残り香が旅情をかきたてる。旅の目的の一つ、生まぐろやさんま寿司の店も点在しているのだが、今食べると夕食が入らなくなるのでガマンガマン……と食欲と葛藤しながら歩いていると、品揃えのよさそうな酒屋を発見。店名は「堀忠酒店」。のぞいてみると“太平洋”“黒牛”など地元の銘酒や和歌山特産の梅酒などが所狭しと並び、週末は角打ちもできるそう。帰りの列車に乗り込む前にもう一度、立ち寄ろうと心にメモ。
そうこうするうちに日も暮れかかり、待ちわびていた夕食の時間に。もうお腹ペッコペコだ。向かったのは駅の真ん前にある「bodai」。2004年に開店したこの店は、地元の魚と創作和食が人気のカジュアルな居酒屋だ。数えきれないほどの品数が揃う中で、看板メニューに君臨するのが“鮪中とろカツ”。サクサクの衣に包まれたまぐろはレアに火が入り、しっとりふわふわ。噛み締めると、旨味と脂の甘味が軽やかに迸る。店主の谷亮さんによれば、このカツに使うのは勝浦で水揚げされた生のビンチョウマグロ。冷凍物では水っぽくなっておいしく揚がらないのだとか。

さらに、「これもおすすめですよ」と谷さんが指差したのは、隣町、太地町の特産であるくじらの刺身だ。赤身と脂身が織り混ざる“鹿の子”と呼ばれる部位が刺身にされ、とろける舌触りは悶絶もの。ほかにも、地元「井藤蒲鉾店」の魚のすり身を使った揚げたての紅生姜天など酒を呼ぶ品々が目白押し。“太平洋 純米酒”をはじめ地酒との相性もバッチリだ。


心地よく酔いがまわったところで、本日の宿「ホテル浦島」にチェックイン。岬に立つこのホテルの名物が天然洞窟温泉「忘帰洞」だ。岩肌むき出しの洞窟風呂に黒潮の荒波が絶え間なく押し寄せ、波しぶきと響きわたる潮騒は迫力満点。朝風呂がまた素晴らしく、首まで湯船に浸かるとまるで海中にいる気分に。あ〜、極楽、至福。

洞窟温泉ですっかりリフレッシュしたところで、2日目は朝9時に勝浦漁港の施設「にぎわい市場」に出陣。館内にはまぐろを中心にさまざまな飲食店や土産物店がずらりと居並んでいる。その中でお目当てはまぐろの仲卸が運営する「鮪の脇口」。そう、恋焦がれていた生まぐろ丼を朝ご飯に食べるのだ。


「那智勝浦の生まぐろは近海で獲れるからもちもちの食感が特徴。特にビンチョウマグロは給食にも出るソウルフードなんです」
と、「那智勝浦まぐろブランド推進協会」の理事長を務める中原健太さん。注文したのはビンチョウマグロとメバチマグロがのる“生まぐろ2色丼”だ。2種類のまぐろは色からして違い、赤みの鮮やかなビンチョウマグロはもっちり粘りがあって旨味も濃い。対して、メバチマグロはさっぱり軽やか。食べ比べるとそれぞれの個性がよくわかる。中原さんによれば、季節でも味は変わるそうで、「秋に旬を迎えた脂ののったメバチマグロは青森・大間の本まぐろよりおいしいと言われるほどなんですよ」。うーん、それも食べてみたい。
この生まぐろ丼に加えて、もう1つ、心惹かれたのは「にぎわい市場」の入り口で次々と焼き上げられていたまぐろのカマ。600円という値段も産地ならではで、図らずも朝からまぐろ三昧に。港の風に吹かれながら味わえば旨さも格別だ。


満腹の幸せを噛み締めながら、次に向かったのは熊野古道。そもそも熊野古道とは熊野三山を目指し、巡礼者が歩いた参詣道のこと。全長は1000kmを超え、2004年にはその一部が世界遺産に登録されている。
参詣ルートはいくつもあって、古の巡礼路を存分に楽しみたいときに活躍するのが特急「南紀」とセットで買える「南紀・熊野古道フリーきっぷ」だ。指定されたフリー区間ならJR線だけでなく路線バスまで乗り放題。今回は“中辺路コース”のフリーきっぷを利用して、紀伊勝浦駅から熊野御坊南海バスで熊野那智大社を目指すことにした。行きは大門坂停留所で下車して熊野古道へ。すると、足を踏み入れた瞬間から雰囲気がガラリと一変した。見上げる高さの杉木立が周囲を埋め尽くし、苔むす石畳がまた幻想的で美しい。清々しい樹木の香りに包まれて足取りも軽く……となったのは最初の15分まで。日頃の運動不足がたたって息が切れ、滝汗状態だ。その疲れを癒やしてくれたのが、大門坂を上がりきったところにある茶屋「和か屋」。那智の滝にちなんだ“お滝もち”と抹茶で一服したらエネルギーチャージ完了。再び、石段を上がって熊野那智大社と隣接する那智山青岸渡寺を参詣し、日本三名瀑の一つ、那智の滝まで拝んだときの達成感たるや。なんだかご利益がありそうだ。
清められた(はず)の体で紀伊勝浦駅に戻ったら、いよいよ旅は終盤戦に。上りの特急「南紀」の出発を待つ間に、昨日訪ねた「堀忠酒店」で車内用の日本酒を調達。さらに、忘れてはならないのが旅の目的の一つだったさんま寿司だ。駅周辺の店をチェックして向かったのはおばあちゃん1人で営む「まさや」。さんま寿司のほかにも、のり巻き、こぶ巻きなどがあり、迷いに迷ってさんま寿司も入る盛り合わせを注文した。あとは列車に乗り込むだけだ。

帰りの便は17時11分発の特急「南紀」8号。列車と足並みを合わせるように太陽は徐々に傾いて、行きに見たコバルトブルーの海はほんのりオレンジ色に染まっている。そそり立つ山並みや深い渓谷も薄暮に包まれ、穏やかな車窓の景色がさんま寿司と地酒を旅の味から郷愁の味へと変えていく。
旅の思い出を振り返りながら、ひと眠りすれば名古屋まではあっという間。記憶よりも心に焼き付けられるのが列車旅の醍醐味なのかもしれない。次に行くときもきっと、この特急に飛び乗っているはずだ。
文:上島寿子 撮影:山田 薫