神奈川県の南西部にある海と温泉のまち、湯河原町。ここには、日本一と称されるラーメン店「飯田商店」がある。開業15周年という節目に、店主の飯田将太さんは自らの歩みを振り返る書籍を上梓した。この一冊を胸に味わった“究極の一杯”の味とは――。
湯河原町の温泉街からは少し離れた、閑静な住宅街を歩いていると、やけに満ち足りた表情の人々とすれ違う。一人、また一人。ああ、やっぱりおいしいラーメンを食べてきた人が放つ幸福感だ。その先には、「飯田商店」の暖簾が潮風に吹かれてはためいていた。
ラーメンマニアならずとも、きっとその名を耳にしたことがあるに違いない。交通の便のよくない場所にありながら、その一杯だけのためにわざわざ訪れる人は絶えない名店だ。東京ラーメン・オブ・ザ・イヤーTRY大賞総合1位を4連覇し、殿堂入りを果たした。
“日本一”と呼ばれてもなお、店主の飯田将太さんは進化を止めない。今春、開業から15周年という節目を迎えるにあたり、その歩みを振り返る『本物とは何か』(小社刊)を上梓した。
「おかげさまで、たくさんの人が僕の本を手に取ってくださってうれしいですね。でね、みなさんからこう言われるんですよ。『飯田さんの本を読んだら、“しょうゆらぁ麺”が食べたくなった』って」
そうなのだ。飯田さんの波乱万丈な自伝にして、職人としての緻密な記録でもあるこの一冊は、ときに感情を揺さぶり、涙を誘ってくる。しかし、きっと誰もが序章で先に胃袋をつかまれてしまう。飯田さんが自らつくる一杯の味わい方について、5ページにもわたって紐解いているのだから。あぁ、この指南に従ってみたい……!
こうして、本に誘われるようにして湯河原までやってきた。すでにイメージトレーニングはできている。
“しょうゆらぁ麺”の端正な丼が置かれた瞬間、立ち上る醤油の香りを吸い込み、芳しさに酔いしれた。最初のひと口はスープから。手前かられんげでたっぷりとすくって味わうと、温泉にとっぷり浸かった瞬間のような満ち足りた気持ちに。これが、飯田さんが考えるスープの「絶対おいしい」を確信できるポイント、チャーシューの脂の旨味が溶け出し、鶏油とともに琥珀色のスープと合わさった味なのだ。
このあとの指南についても、書籍からほんの一部を紹介したい。
麺を手前から引っ張り出して、強くすすり上げてほしい。つるつるつるっーーと。
そしてスープをひと口、ふた口と飲んで、さらに麺をすする。
なめらかで、しなやかな細めの麺が、程よくスープをまとって
舌から喉を気持ちよく通りすぎていく。と同時に、醤油とスープと小麦粉の風味が、
舌の上から鼻腔まで、大きく花開くのがわかると思う。
――序章 僕の「ラーメン美味求真」 より
こんなふうに、飯田さんは自著で明かしながらも、決して客にその味わい方を押し付けたりはしない。
「ああしてこうして、って言われるのはうるさいじゃないですか。割烹料理とかじゃなくてラーメン屋なんだから、好きに楽しんでもらえたらいい。でも、本を読んだお客さんが、僕が考えるおいしい食べ方を実践してみたいと思ってくれるのはうれしいですね。ラーメンはやっぱり、すすって食べてこそなので。お客さんには常に、“もっとおいしく食べてもらいたい”って思ってますからね」
『本物とは何か』を読めば、同業の職人でなくても驚くに違いない。選んでいる食材、味を追求する過程についても、ここまで明かしてもいいのかと思うほど克明に記されているからだ。
たとえば、語られることの少ない水。水道水やミネラルウォーターのように、ミネラルを含む水を用いるほうが味わいに厚みが出て、おいしいと感じるスープになりやすい。しかし飯田さんは、逆浸透膜システムで味を感じさせる成分をほぼ含まない純水に近いものをつくり、きれいな旨味だけを足していく。すなわち、水を“真っ白なキャンバス”と考え、何もないところに絵を描くようなイメージで、スープをつくっているというのだ。
スープの土台となる鶏のガラと肉は、比内地鶏、名古屋コーチン、黒さつま鶏黒王。豚のゲンコツと背ガラ、肉は霧島高原純粋黒豚、TOKYO X、天城黒豚と、現時点で使っている銘柄も細かく明らかにしている。さらに、北海道産利尻昆布と羅臼昆布は天然物を。青森県産干し貝柱、アサリ、乾燥マッシュルーム、白菜といったスープの脇役もまた、飯田さんが描きたい絵には欠かせない画材というわけだ。
醤油だれは、兵庫県産の足立醸造の国産有機大豆樽仕込み生揚げ醤油を主に、8種をブレンド。そこへリンゴ酢、本醸造みりん、はちみつも加える。
要となる麺は、北海道江別産はるゆたかの一等粉の小麦の芯だけを挽いたものを主として、秋田県産ネバリゴシ、香川県産さぬきの夢などを加える。製麺作業は、毎朝8時から3時間近くかけて、必ず自らの手でおこなう。その日の気温や湿度によっても繊細な調整が欠かせないからだが、「やっぱりお客さんは、僕がつくった麺を食べたいじゃないですか」と笑う。
飯田さんは、自分が扱う食材の産地には可能な限り、足を運んできた。ここまで食材を包み隠さずオープンにする理由は、きわめて明白だ。
一杯のラーメンは、生産者さん一人ひとりの想いの集合体だ。
皆さんの想いが集まって僕の中に入ってきて、それが一杯のラーメンに結実する。
――序章 僕の「ラーメン美味求真」 より
「本というステージがあるならば、生産者さんと一緒にスポットライトを浴びたかったんです」とも、飯田さんは胸の内を語る。それに、製法や食材を明かしたとて、追随を許さないという自負心も強い。
「同じ材料で同じつくり方をしたとしても、絶対同じ味にはならない。それに、真似すれば同じになるだろうと思ってつくった味は、それなりにおいしくはなるだろうけれど、感動レベルには至らない。だって、この一杯の味は僕の“生き様”なんですから」
文:大沼聡子 撮影:合田昌弘