山形県天童市。現在、東北楽天ゴールデンイーグルスで打撃コーチを務めている栗原健太の出身地である。彼について話すとき、通りがいいのは、広島東洋カープの元4番打者かもしれない。そして、実家は焼肉店を営んでいる。供される山形牛を頬張りながら、野球談義に花を咲かせます。
天童駅からタクシーに乗り込み、町から果樹園に向かう場所にある焼肉屋に向かう。
おじさんとおじいさんの間の年頃の運転手さん曰く、観光客が多いのは、4月下旬の「人間将棋」もしくは初夏のさくらんぼが実る頃だという。
とはいえ季節はすでに夏、天童の町中は、正直に言って閑散としていた。温泉街を通り過ぎて国道48号に入ると「ここから仙台まで56km。仙台の駅前まで、まっつぐ行けば1時間ちょっとです」と、運転手さんはいくぶん誇らしげな口調で教えてくれた。仙台にはまだまだ1時間はかかるというあたりが、目的地「マルタイ焼肉センター」である。
その手前で減速しながら、運転手さんは言う。
「マルタイ、よく知ってますね。広島カープの栗原選手の実家です」
もちろん、それは承知の上で来たのだ。でも、今では栗原健太はカープの選手ではなくて、仙台に本拠地のある東北楽天ゴールデンイーグルスで二軍打撃コーチをしているはずなのに。南東北に帰ってきたにもかかわらず、イーグルスではなく、カープのイメージのほうがやはり色濃いのだろうか。
「楽天入っても、カープっていうイメージがありますよ」
初めて「マルタイ」に来たときは、身近なカープファンが一緒だった。2016年の夏のことだ。その年のプロ野球選手名鑑をめくると、かつてカープの四番打者であった栗原健太は、イーグルスのページで背番号0を付けている。同年1月の公式ブログには「また東北人になります」とあった。
16年間所属していたカープを退団し、楽天に移籍したばかりなので、店の中に貼ってあるポスターや置いてあるグッズはカープ時代のものが多く、往時の活躍を思い出し、カープファンはしんみりしていた。
栗原健太ってどんな選手だったの、と訊いてみる。
「弱かったカープの暗黒時代に、ひとり気を吐いた素晴らしい選手です」
それまでくだけた口調で喋っていたのに、ひとたび栗原の話となると、カープファンは改まった口調になった。つられてこちらも、投げ出していた足を引っ込めて、座り直す。
「日大山形からやってきて、四番として育てられて。そういう、カープらしい選手ですよ。丸が出てくる前だものね。今日は負けたけどいいや、栗原がホームラン打ったけん、という感じ」
今度は、語尾に広島訛りがくっついた。
「だけど、一本打ったとしても勝てないんだから。そしたら栗原は怪我して、試合に出られなくなっちゃったんだよね。ああ、栗原がいればなあ」
カープファンは嘆息した。まるで、およそ10年前の、その「暗黒時代」に立ち戻ったかのように。
栗原健太は、1999年ドラフト3位でカープに入団。2008年には、新井貴浩がFAで阪神タイガースに移籍したその穴を埋めるように開幕から四番を任される。同年、初めてのゴールデングラブ賞を受賞。2009年WBC出場、2011年にはベストナインに選ばれる。
しかし、右肘の怪我に苦しめられた。2013年5月以降、一軍での試合出場がないまま、2015年のシーズンを最後にカープを退団することとなる。
2016年、カープは25年ぶりにリーグ優勝した。栗原健太が、入団テストを経て入った楽天でシーズンを通して一軍に上がれず、現役を引退することを決めたのも、同じ年だった。
2019年の栗原健太は、前述のとおり、楽天二軍の打撃コーチをしている。
3年前と同じく、靴を脱いで座敷に上がる。座布団の上で、畳の目を指でなぞりながら、ビールと山形牛が盛られた皿が運ばれてくるのを待つ。
同じ敷地の中にある精肉店が窓から見える。
「マルタイ」の始まりは1961(昭和36)年。当時はお肉と食料品を商う店だった。やがて焼肉店を併設し、1977(昭和52)年には「焼肉センター」を建てる。今、私がいるのがそこである。3階建てで、2階の大広間と、今は使っていないという3階の座敷と、さらに後になってから建てた離れも含めると、300人のお客を受け入れることも可能であるという。少し昔はここで結婚披露宴をする人もいた。今は果樹農家の収穫前の会議や、学童のスポーツクラブの激励会、反省会などに使われることが多いそうだ。
この広大な焼肉店を切り盛りしているのは、栗原健太の母上である、順子さん。女手ひとつで彼を育てた、という、いつぞやのスポーツ新聞で読んだエピソードも頷ける、力強さと可愛らしさを等分に併せ持つ女の人だ。
――つづく。
文:木村衣有子 写真:阪本勇