「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
「おらが村の酒 神亀」を掲げ、半世紀前から並走した地元蓮田の「今宮屋酒店」西山昌男さん①

「おらが村の酒 神亀」を掲げ、半世紀前から並走した地元蓮田の「今宮屋酒店」西山昌男さん①

「おらが村の酒 神亀」。世界広しといえども、このキャッチフレーズの幟(のぼり)旗を作れたのは、この人だけだろう。神亀酒造のお膝元・蓮田でずっと、「おらが村」の地酒を応援してきた今宮屋酒店の西山昌男さんだ。神亀酒造のセンムこと小川原良征さんとのつきあいは、西山さんが店を継いだ1972年から。「センムは、昔は、ヒマだったいねえ(笑)」と回想する、数少ない時代の証人だ。神亀酒造の変遷を一番身近なところから見守り続けた人が語るセンム像とは。

今宮屋酒店は、センムの父・神亀酒造6代目の正英さんの代から神亀酒造の酒を扱ってきた酒販店だ。1953年に長男として生まれた西山さんは、働く両親の背中を見ながら育ち、高校卒業後はすぐさま店の仕事を手伝うようになった。
「店を継ぐ、というよりは、自然と店に入っちゃったよね。おふくろが頑張っていたのを見ていたし、助けてやんなくちゃ大変だなと思って」。
取引先の跡継ぎ息子として出会ったセンムは、西山さんよりも7歳年上。出会った1972年当時は生家の蔵で純米酒の醸造に意欲を燃やし、「時期尚早」と家族にも蔵人にも反対されながら三倍増醸酒の撤廃に踏み切ろうとしていた頃だ。さまざまな想いを言葉にして発し続けていたのだろう。「よく喋るなあ……」、それが初めて会った時のセンムの印象だったという。

「センムは、いろんなところにすっ飛んで歩いていたからね。蔵にいなくてオヤジさんにときたまバクダン落っことされたり、お母さんや蔵人と喧嘩したりで。オレは、おっかなくて蔵から逃げた日もあったけど、当時からセンムは人の面倒見は良かったね。オレはその頃、『酒屋の酒知らずじゃいけねえな』と思っていたんだけど、センムはなんでもよく知ってたからね。いろんな話をしてくれたし、山梨のワイナリーとか、ウイスキー工場とか、川越の醤油屋、秩父の味噌屋、あちこち連れていってもらいました。やっぱし、センムは自分で開拓したものがいっぱいあるからね、そういう点ではすごいよね」。

西山昌男さん
昭和、平成、令和の半世紀にわたって神亀酒造と深い関わりを持ち続けている西山昌男さん。高校を卒業して店に入った10代の頃からセンムと行動を共にしてきた。
今宮屋酒店
「今宮屋酒店」には本店と支店の2軒があり、こちらは本店店内。新酒から熟成酒まで、神亀酒造の酒がびっしりとフルラインで並んでいる。酒だけでなく棚に並ぶ調味料の多くもセンムから教わった推奨品。

全量純米蔵への移行で孤軍奮闘していたセンムが兵庫県芦屋市出身の美和子さんと結婚したのは、そののちの1976年のことだ。
「結婚したあとは、美和子さんもうちに配達にきていたよ。今は、酒の1ケースは6本になったけど、昔は木箱で10本入りだった。それを美和子さんが運んできてた。もともとは芦屋のお嬢さんだったのにねえ。そのうちに、センムが子連れで配達に来たりしてね。可愛かったから、一緒に連れて歩きたかったんだろうね」。

妻となった美和子さんは、蔵の事務仕事から酒の配達、蔵人さん達の食事作りまで自分もフルで働きながら全量純米蔵を目指すセンムを応援し、家族内で唯一の味方となった。「(経営が大変だったのに)美和子さんがセンムを応援したのが、すごいよね。みんなが『純米酒なんて造ったら蔵がつぶれる』ってそりゃ言うよねえ、っていう時期にね」。

お互いの家族同士も顔を合わせる地元の蔵元と酒販店。西山さんは、足しげく神亀酒造へと通った。口の悪いセンムが西山さんにつけたあだ名は「油屋さん」だ。そのココロは「ひまがあるとアブラを売りにくる」。筆者が神亀酒造を訪問していた時もかなりの頻度で西山さんと会うことができた。西山さんが蔵の事務所に入ってくるたびにセンムは「ほれ、また油屋さんが来たよーん」と笑っていた。

「今宮屋酒店」本店入口
蓮田市の郊外にある「今宮屋酒店」本店入口。ここにも「神亀純米酒粕」の大きな文字が。
ボトル
神亀酒造の「上槽中汲み」は無濾過生原酒のはしり。その生みの親ともいえる西山さんの店だけに1合から試せるミニサイズのボトルも。下段は「カメカメカップ」と呼ばれる純米酒のワンカップ。

西山さんは、どうして毎日のように神亀酒造に行っていたんですか。
「勉強になった。センムはいろんなこと知ってるし、蔵に行くと、いろんな人が来ているし、センムがその人たちを紹介してくれるし。酒だけじゃなくて、調味料でもなんでも、センムが紹介してくれるものを俺は追っかけていけばいいんだと思ったね」。

現在の神亀酒造には、純米燗酒および熟成酒というジャンルを牽引してきた蔵というイメージがあるが、西山さんが知るセンムは、長らく、さまざまな試行錯誤を重ねていた人だった。酒造期以外は良い酒米を求めて各地を歩きまわり、高精白の吟醸酒ブームの時代から、低精白の米であってもきれいな旨味を持つ酒を醸す可能性にも着目していた。
純米大吟醸から純米酒まで、さまざまな酒質の熟成酒への取り組みを毎年続ける一方で、発酵中のもろみを粗漉ししだけで瓶詰めをする発泡性のにごり酒や無濾過の生酒など、フレッシュな新酒の味わいを生かした商品群も生み出したのは、市場に先駆けての1980年代のことだ。「センムはいろんなことを試していたから、味の幅が広かったよね」。試した酒が新たに搾られると西山さんが呼ばれ、さまざまな酒の試飲会となったそうだ。

地酒ニュース
西山さんが手書きでつくっていた地酒ニュース。西山さんにとっての“地酒”とは神亀のこと。センムのインタビュー記事や神亀酒造の酒造りを紹介した記事など、紙面には神亀愛が溢れている。

「亡くなった甲州屋(児玉光久)さんからは、金賞を取れよなあって言われたんだって」。
金賞とは、全国新酒鑑評会の金賞入賞のことだ。筆者もセンムと西山さんと連れ立って、まだ東京都北区滝野川にあった頃の醸造試験所(※)へ鑑評会出品酒の公開唎き酒へと出かけていった思い出がある。1980年代後半のことだったのではと記憶しているが、神亀酒造は選外だった。その後、鑑評会の出品酒はアルコール添加の酒が主体であること、香りの高い酒が入賞には有利であることなど、鑑評会の入賞酒と自身の目指す酒との方向性の違いを感じたセンムが「もう鑑評会には出さなくていい」と決めたことで、神亀酒造では純米大吟醸を醸造しても、それは鑑評会の出品酒ではなくなった。
これは筆者の解釈で、今となっては確めようもないことだが、児玉さんの「金賞を取れ」という言葉は、1980年代の時点では、最高の酒の象徴が金賞受賞酒であり、そんな誰もが認める良い酒を造ってくれという意味だったのだろうか、とも思う。
(※現・独立行政法人酒類総合研究所。1995年、東広島市に移転)

スナップ
1990年代初頭、西山さん、センム、筆者の3人で飲みに出た時のスナップ。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。