「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
20年間、春夏秋冬、神亀酒造に通い続けた酒販店「藤沢とちぎや」平井順一さん①

20年間、春夏秋冬、神亀酒造に通い続けた酒販店「藤沢とちぎや」平井順一さん①

神亀酒造・小川原良征センムのことを“恩人”と回想する人は少なくない。神奈川県藤沢市の酒販店「藤沢とちぎや」の平井順一さんもその一人だ。だが、その出会いによる化学変化は、人によってさまざま。平井さんにとってのセンムは「わかりやすくて、めんどくさい人(笑)」だったという。直情型で喜怒哀楽が出やすいかと思えば、意外に内気で偏屈。加えて、超のつく照れ屋。優しさと義侠心を持ちながら、口から出るのは憎まれ口。一筋縄ではいかない蔵元を慕い続けた理由はどこにあるのだろう。

取引をお願いしたら「お前はまだ3年早い」と言われた

平井さんは1958年生まれ。大学卒業後は父が経営する酒販店を継ぐつもりで、まずは酒類卸問屋に勤務。修業期間を経て生家の酒販店に入ったのは1982年のことだ。
「なんの疑問もなく、店を継ぎましたね。当時は安売り店もないしバブルに向かっている頃だから、どんどん物が売れて。実家に戻った時の僕の最初の仕事は御用聞き。それだけでも週に250軒ありましたからね。朝7時半から働いて、注文とったら午後から荷造りして配達して。冬は灯油売って。忙しかったです」。

雲行きが怪しくなってきたのは、10年後あたり。免許制で守られていた酒販業界だったが、1992年の規制緩和によりコンビニやディスカウントストアにも酒類が並ぶように。危機感はジワジワと迫ってきた。
「うちは、ビールが6割、残りは大手の日本酒。おふくろは贈答用の熨斗(のし)のことをよくわかっていて、親父は町内会の仕事をちゃんとやって、という地域に根差した正しい日本の酒屋だったんです。でも近所のコンビニが酒を売り始めた時に、このままではどう考えても、今の商売では無理だと思いましたね。コンビニとディスカウントは脅威でした」。

跡継ぎとして店の将来を考えた平井さんは、専門店化をはかろうと店の方向転換に乗り出した。手づくりビールキッドのインストラクターになったり、ワインをやろうと考えたり。
しかし、ワインのラベルが読めないという根本的問題に気がつき、卸問屋にいた時の商品知識で地酒銘柄を並べてみることに。
「でも自分では日本酒はあまり旨いとは思えない。それで人気の酒蔵に何軒か電話して売って下さいと頼んでみたのですが、地酒問屋さんに聞いて下さいって電話切られちゃう。なので次々と電話してみるんだけど、やっぱり、けんもほろろ(笑)。今なら、それは当然だとわかるけど、当時はお酒を売ってくれない蔵があるということにビックリして。俺、なんで断られるんだろう?と。お酒の会の蔵元ブースに行って頼んでも駄目。直接話しても駄目なんだー、とすごいショック受けて」。

藤沢とちぎや
地酒の大きな文字が目印の「藤沢とちぎや」店舗。小田急線の藤沢本町駅から徒歩6分、JR藤沢駅からは徒歩15分の距離にある。

ならば、と店の存続をかけての紆余曲折を経たあとに、1995年に人の縁で紹介されたのが「るみ子の酒」の森喜酒造場だった。蔵の跡継ぎ娘だった森喜るみ子さんが漫画『夏子の酒』を読んで感銘を受け、その縁から著者の尾瀬あきらさんと親交があった小川原センムが酒造りの指導へと出向いた蔵だ。では、そこで平井さんとセンムとの出会いが?

「まだまだ(笑)。その頃、ようやく、人気のある蔵元さんは、そう簡単にはお酒を分けてはくれないんだということがわかり始めてきた時だったので、まずは蔵見学をさせてくださいと森喜さんにお願いしたんですよ。それで三重県まで行ったんです。

2度目の酒蔵訪問時、1996年1月に平井さんは、三重県の酒販店「安田酒店」の安田武史さんと同席し、初めて神亀酒造の存在を教えられた。
「純米酒だけの蔵があると安田から聞いて、神亀酒造に電話をしたんです。電話口に出たセンムに『お取引きさせてください』と頼んだら『そう言われても』と断られて。それが1月。その数ヶ月あとに安田から『うち(安田酒店)のイベントに神亀のセンムが来るよ』って教わって、鈴鹿まで行きました。会場でセンムを見つけたので『この間、お電話をした者です』って挨拶したら、『そんな話をしに、ここに来たわけじゃない』(笑)。だから『大変失礼いたしました』って。それがセンムとかわした初めての肉声。感じ悪いよねー(笑)」。

平井順一さん
平井順一さん。この笑顔から伝わるように、おおらかさとともに細やかな心配りも共存する人だ。
メモ
酒蔵で利き酒をしたときの記録。以前は手帳だったが、現在はスマホにメモしている。

しかし、そんな“感じの悪い人”のもとに平井さんは、再度の連絡を入れて訪ねていく。
「センムがどういう人か、ほかの人からの話も入ってくるし、本とか雑誌とかいろいろ読むと、まあ、そういう人なんだと思って。で、最初に蔵にお邪魔したら、事務所に灰皿が置いてあるから僕はタバコを吸って、いきなり地雷踏んで。タバコについては何も言われなかったんですけど、でも『ぜひ、お取引をさせてください』と頼んだら、『お前はまだ3年早い』って言われたの(笑)」。

当時の平井さんは、とにかく酒のことを学びたい、蔵をたくさん見たいと思い詰めていた時期。「事前に見学の申し込みをして断られるのがコワイ」という思いから、アポなしでどんどん蔵に突撃していき、断られたら諦める、ということを繰り返していたという。「センムからは『3年早い』と言われたので、そのあとまた『酒造りを見せて下さい』と頼んで蔵に出直しました。藤沢から朝5時台の始発に乗ると、神亀酒造のある蓮田駅には7時に着くんです。当時は湘南新宿ラインもないから、どんなに早く出ても7時着が限界で。それで蔵に行ったら『もう作業は終わってるわ』って。朝の3時から甑(こしき、米を蒸す道具)に火を入れる蔵ですからね。で、何かできることありませんかって聞いて、頼まれたのはガッチャンの散歩(笑)」。

ガッチャンとは、その当時にセンムが可愛がっていた飼い犬だ。酒造りの時期に入ると、皆が忙しくなるので、ガッチャンを散歩に連れていくのは客人の役目だった。
「それ以来、蔵に行くたびガッチャンと散歩して。取引してない時ですよ、まだ(笑)。
そんなことがあってから、センムと飲んでいた時に『なんで、おめえはうちの酒売ってないんだ』って言われたんですよ。もー、めちゃくちゃじゃないですか。『センムが3年待てって言ったじゃん』って言いましたけどね」。

無濾過生原酒シリーズ
毎年異なる商品ラベルで出荷されるセンム考案の無濾過生原酒シリーズ。醸造年度違いのアイテムが並ぶ。

そして、ようやく取引開始。最初に電話をしてから1年後のことだ。それからも平井さんは3ヶ月に一度くらいの頻度で神亀酒造を訪ねた。
「1人で行く時は毎回アポなしで行きました。センムがいなかったら、それはそれでいいやと。9割はセンムはいましたけど。でも他のお客さんがこられている時は、一応は遠慮して。でも、センムが『こっちに座ってろ』って中に入れてくれるから、事務所の隅っこで本読んでるふりをしながら、いろんな話を聞いていましたね。銀行さん、蔵元さん、酒屋さん、いろんな人が来てました」。

スナップ写真
神亀酒造訪問時のスナップ写真。腕を組み、小川原センムを見下ろしている貫禄たっぷりの男性が40代の平井さん。

それにしても。平井さんは、なぜ、そんなにも神亀酒造に通い続けたのですか?
「そうですよね、優しくされるわけでもないのに(笑)。でも、好きだったんでしょうね。
いきなり行くと『なんだ、俺はこれから出かけるんだよ』って言われることもあって。でも『お前も一緒に来い』って川越の整体院とか一緒に行って受付の横のベンチでセンムの整体が終わるまで待っていました。そのあと、『小川菊』さんでウナギと酒をご馳走になったり。『神田新八』に最初に連れて行ってくれたのもセンムです。そのあと一人でも行って、『ひこ孫』2級の10年熟成を燗で飲んだ時の旨さは衝撃でしたね。外でもセンムのご自宅でもたくさんご馳走になったけど、言われたのは『これ食って、これ飲め』そればっかりでした。いろんな人との出会いも作ってもらいましたけど、やっぱり、『これ食ってこれ飲め』って言葉が一番残っていますね」。

数えきれないほどの飲食の思い出の中でも、今でも笑いがこみあげてくるのは、センムと二人で飛騨高山を旅した時のことだ。
「僕はその頃ラーメンが好きで。高山に着いたら、あのラーメン屋に行くって決めてた店にセンムを引っ張って行ったんです。で、化学調味料が置いてあるのは普通じゃないですか、町中華だから。そしたら、それを見たセンムがカウンターの下で俺の足を蹴って『(化学調味料を)入れるのやめろって言え』って(笑)。でも『初めて来た店だし、俺、そんなこと言えませんよ!』って。結局、ラーメンの味は、入れたか入れないかわからないくらいの感じだったので『おう、これは食えるな』って食べてましたけどね(笑)」。(続く)

家族4人
「藤沢とちぎや」は家族4人て経営している。左から妻の三都子さん、平井さん、息子の恒大さん、その妻のなつみさん。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。