麺店ポタリング紀行
泪橋で泣いた夜。

泪橋で泣いた夜。

泪橋を逆に渡ることを夢見た丹下のおっちゃんは、涙もろかった。おっちゃんだけじゃない。泪橋の空気は湿気を帯びている。もしかしたら、この土地にまとわりつくしっとりとした人情が、行き交う人々にからみついて、涙腺を刺激するのかもしれない。三社祭の日、あしたのために山谷をさまよい、想いがこみ上げてきた(泣)。

鰹節とナルトが沁みる。

都電荒川線に沿って走り、『あしたのジョー』の町、山谷に着いた。
漫画の舞台になった泪橋は、いまはビルが並ぶ大きな交差点になっていて唖然としたが、ドヤ街は今も健在で、ジョーもちゃんといた。

ジョー像
うーん。海洋堂が製作したジョーも見てみたかったかも。

「ドヤ」は宿を逆さに読んだ俗語で、簡易宿泊所のことだ。《2畳1900円》といった宿泊料金が入口に出ている。三社祭の提灯もかかっていた。

山谷の簡易宿泊所
山谷の簡易宿泊所。大阪の釜ヶ崎より少しお高め。
山谷のドヤ街
山谷のドヤ街には、現在でも100軒以上の簡易宿泊所がある。

三社祭は浅草の祭りだ。そっか、いまがそうなんだ。ふいに青森の夜が脳裏に浮かんだ。
10年以上前のことだ。旅行中、銭湯に入り、体を洗っていたら、体中クリカラモンモンの兄さんが入ってきた。刺青禁止じゃないの?と驚きつつ、こっちに来るなよ、と念じていたら、僕の横に来て、体を洗い始め、気さくに話しかけてきた。生まれも育ちも青森だという彼は、三社祭で神輿を担ぐために、毎年青森から駆けつけるという。
彼は体を洗い終わって湯船に入ってからも三社祭の魅力や江戸の人情を懇々と語った。体の弱い僕はのぼせて気が遠くなりながら、ひたすら相槌を打っていたのだった。
だから三社祭といえば、青森のクリカラモンモンなのだ。

山谷を散策していると、お囃子が聞こえてきた。人が集まっている。神輿だ。あれ?意外と小さいな。いや、神輿としては普通だが、ねぶたの国から毎年駆けつけるモンモンがいるぐらいだから、山車のような巨大な神輿だろうと勝手に思っていた。

三社祭の神輿
三社祭の神輿。三基の神輿が町を練り歩きます。

そこを離れ、再び山谷の路地をひと筋ずつつぶしながら、ラーメン屋を探す。
しかし、これといった店がない。文化遺産のような天ぷら屋などがたまに現れるものの、古い店は意外と少なかった。

土手の伊勢屋
天ぷらの老舗「土手の伊勢屋」。かつては吉原遊郭に通う客で賑わったそう。
古い建物
ここは、元料亭かな。いや、この手すり……もしかしたら元妓楼?

そのうち日が暮れ、暗くなってきた。
交番に入り、「昭和からやっているようなラーメン屋ってないですかね」と訊いてみる。
「それなら」とすぐに返事が返ってきた。
その店「中福楼本店」に行ってみると、それほど古く見えなかった。それにラーメン屋というより、大衆中華の店だ。
どうしよう。大阪のドヤ街、釜ヶ崎にあるうどん屋が脳裏をよぎった。安さ本位のその店のうどんは、1杯150円で、ほぼ旨味調味料の味だったのだ。
でもほかによさそうな店もないし、もう腹ペコだ。ままよ、とドアを開ける。

店内
「中福楼本店」の壁に貼られたお品書き。みそ汁やとんカツなど、食堂メニューも並んでいる。

男性客が7、8人いた。人生の荒波を越えてきたような人ばかりだ。
落武者のような髪型の人がふたりいた。ひとりはお爺さんで、テレビに向かって笑顔でしゃべり続けている。もうひとりの50歳ぐらいの落武者は、食べたあと何も言わず、お金も払わず、長髪をなびかせ出ていった。ギョッとしたが、たぶん、ツケ払いの常連なのだろう。きっと。

餃子とラーメンを頼んだ。
まずは餃子が運ばれてくる。

餃子
餃子400円。好みのルックス。期待しちゃうよ。

うむ。おいしい。ただ、店の特徴がすごく出ているかというと、そうでもないかも。この感じだと、ラーメンも平均的なタイプかな。
と考えていると、ラーメンがやってきた。
おや、こっちは見た目は個性的だ。ナルトも入っている。前に書いた“ナルトの仮説”に従えば、この店も意外と古いのだろうか。

ラーメン
ラーメン450円。ナルトに心踊ります。

スープをすすると、えっ?と驚いた。鰹節?
蕎麦屋のラーメンならわかるけど……。僕の舌が間違っているのだろうか?
ほかに、煮干し、昆布、鶏ガラ、かな。といっても主張の強い旨味をゴテゴテと重ねた(食べていて疲れる)今風のラーメンのような太い味じゃない。昔ながらの中華そばのあっさりした味わいの中に、きれいな旨味が複数、涼しい顔で潜んでいる。うまいぞ、これは。ズルズルと高速でかっこむ快感に浸りながら、一気に完食した。はあ、やっぱりここも、“最後の一滴、最後の一麺までうまい”店だった。

女将さんに訊いてみると、やはり鰹節が入っているとのこと。
「昔ウチにいた中国人に教わったとおりにいまもつくってるんですよ」
「えっ、お店、何年やってるんですか?」
「80年」
“ナルトの仮説”は、やっぱりここでも当てはまった!

それにしても、各地に似たような話があるよなあ。曰く、先代が中国人から製法を受け継ぎ、というやつだ。もしかしたら、戦後の日本はそういう店だらけだったんじゃないだろうか。で、いまもその味を守っている名店が、実は知られていないだけで、意外とたくさんあったりするのかも。

ここに来て本当によかった。

女将さんが表に出て暖簾を外した。
「えっ、もう終わりですか?」
時計を見ると、まだ19時だ。
「大丈夫ですよ。ゆっくりしていってください」

お店外観
気がつけば、すっかり夜になって、閉店間際。慌てて外に出て撮った一枚。

「昔はいまじゃ考えられないくらい、忙しかったんですよ」と女将さんは言った。
「労働者が街にあふれていて、朝10時に店を開けたら、そこからひっきりなし。夜の閉店まで、5分も休めなかったわ」
だから、早めに店を閉めているのか。
「お米は2升窯で1日8回炊きましたね」
祭りの法被を着た男性が入ってきた。女将さんに挨拶し、二言三言交わし、出ていった。
「三社祭も昔は大変でしたよ。料理をみんなに振舞うの。カレー100人前とかね」
飲食店はそういう形で祭りに協賛するのか、と思ったら、別に寄付金も渡していたらしい。
「料理はボランティアですよ。どの店もそう。みんな、人の役に立てたらいいって、それだけ」

落武者風のお爺さんが、僕に笑顔で話しかけてきた。何を言っているのかわからず、愛想笑いをするしかなかった。女将さんがお爺さんに何か言った。お爺さんは再びテレビに向かって喋り始めた。
「いろんな人がいるわ。荒っぽい人もね。若いカップルが来ると、汚い言葉を言ったり。でもね、ちゃんと向き合ったら、みんないい人なの」
女将さんの目と口元には、常に微笑が浮かんでいるようだった。何にも動じない気配があった。この人には、みんな甘えるんじゃないかな、と思った。
落武者のお爺さんがまた何か話しかけてきた。歯の抜けた笑顔が、なんだか天使のように見えた。客はもう僕とお爺さんのふたりだけだった。

女将さんが目の光をかすかに強めて言った。
「最初、あなたが入ってきたときね、私びっくりしたの。昔の恋人にそっくりだったのよ。その人、たくさん手紙をくれたの。きれいな字でね。あなたの顔、ほんとそっくり。そういう顔の人は、いい人よ」
なんだか、自分が本当にいい人になったように思えてきて、やさしい気持ちになった。
「あの、最後にカレーライスお願いしてもいいですか?」
この店の料理をどうしてももう一度味わっておきたくなったのだ。カレーなら手間もかからないかな、と思った。
出てきたカレーを見て、胸がときめいた。最近見なくなった“あの日のカレー”だ。

カレーライス
カレーライス550円。カレーもラーメン同様に、最近は複雑になっていますよね。

食べた瞬間、小麦粉のまろやかさと、香辛料のやさしい刺激が口に広がった。給食か、あの頃の店の味か。記憶のはるか遠くのほうから、懐かしさがこみあげてきた。こんなに、生きてきたんだ。急に目頭が熱くなって、自分でも驚いた。ああ、うまいなあ。なんて幸せな味だろう。これが本当にうまいということだよ。
夢中で食べた。お腹以上に胸がいっぱいになった。東京を横断した先で、こんな店に出会えるなんて。

勘定してもらい、お代を払うと、女将さんは500円玉を1枚返してきた。えっ?
「私、こうやっておまけしてあげるの。若いカップルなんかにね。そしたら、また店に来てくれてね、結婚したって報告してくれたりするの。いいことがあるのよ」
この人には、伝えよう、と思った。
「再来月、妻が出産を迎えるんです。初めての子で」
女将さんの顔がパッと輝いた。
「まあ、そうなの」
「また、来ます」
女将さんは「ちょっと待って」と言って厨房に走っていき、缶ジュースを3本持ってきて、僕の手に渡した。

浅草の街
浅草の街。山谷からは1.5㎞ほど走れば、たどり着く。

夜の町を走り始めた。自転車世界一周旅行で寄ったモザンビークのことが思い出された。アフリカ最貧国のひとつだ。地面に野菜を置いて売っていたおばさんから、トマトを4つ買い、代金のお札を4枚渡したら、おばさんはお札を1枚返してきたうえに、僕の手にトマトを次々に追加してのせていった。僕の小汚い格好と荷物を積んだ自転車を見て、そうしたのだ、と思った。その目は、微笑んでいた。母の目だった。おばさんの痩せ細った手を握りながら、僕は涙が止まらなかった。

旅の“妙”を思った。あのときも今日も、一本違う道を行けば、彼女たちにはおそらく一生会わなかったのだ。
祭りのお囃子が聞こえてきた。音をたどっていく。
群集が見えてきた。自転車を停め、ぼんやり眺めた。人々の頭の上で神輿が踊っている。夢を見ているようだった。
青森のあの兄さんは今年も来ているのかな、と思った。

三社祭
奇跡のような、夢のようなこの日は、三社祭の初日でした。

――つづく。

店舗情報店舗情報

中福楼本店
  • 【住所】東京都台東区日本堤1-24-16
  • 【電話番号】03-3872-8936
  • 【営業時間】10:00~19:30
  • 【定休日】木曜
  • 【アクセス】JR、東京メトロ、つくばエクスプレス「南千住駅」より7分

文・写真:石田ゆうすけ

石田ゆうすけさん.jpg

石田 ゆうすけ(旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。