「ツバメコーヒー」のメタモルフォーゼ。
「ツバメコーヒー」のレゾンデートル。

「ツバメコーヒー」のレゾンデートル。

とかく珈琲道になりがちなコーヒーの世界で、適度に距離をおくというか、独自のスタンスでコーヒーと向き合っている「ツバメコーヒー」の田中辰幸さんの、コーヒーに出会った後の話は、なんだかとても感動的である(そう言うと、本人は嫌がるかもしれないけどね)。最終回です。

コーヒーは自由である。

アプローチ
清潔感にあふれるPARIS RAVISSANTという名の美容室に入るには、いい意味で雑多な趣きを感じさせるツバメコーヒーのアプローチを通ることになる。

ツバメコーヒー、という看板を出してから、それまでとはまた毛色の違うお客がここにやってくるようになった。そう、ヘアカット1回とコーヒー1杯は、別物だから。

丁寧に散髪してもらうのだったら、財布からそれなりにお金を出さないといけないし、腰掛けて、じっとして、髪を整えてもらう間にはそれなりの時間も過ぎる。けれどそれは、身だしなみを整えて人間らしく生活していく上では必須の出費と時間でもある。

コーヒーは、小銭を出せばすっと買えるし、席に腰掛けても、紙コップを持ってどこかに出かけてもいい、好きなように飲める。その軽みは嗜好品ゆえにまとうことのできる自由さ、ともいえる。

コーヒーを淹れる田中さん
コーヒーを淹れる田中さんには、近寄りがたいオーラもなければ、馴れ馴れしい雰囲気もない。自然なんだな。

コーヒーをはじめて、少しずつお客さんが来てくれるようになると、だんだん、自信が獲得されていく。たとえばこの本棚にある本を、面白いねって言ってくれる方がいたりとか。これまで、本はずうっと無駄だった、ビジネスとしては無駄だったんですけど、この人は何考えてたんだろうという軌跡があの本棚から見える。僕がずっと蓄積してきたものが、役に立ったというのは、嬉しいことでしたし、これまでの蓄積、自分の過去が肯定される。それをひとつのとっかかりとして、自分をどう見せたいか、相手からどうよく思われたいかということを手放していくことができました。

本棚
美容室との仕切りとなっている本棚。たとえ、本を手に取らなくても、眺めているだけで想像力をかき立てられる。出会いや発見、気づきが並んでいる。

コーヒーをやる前の僕は、考えるばっかりで、いかに嫌われないかというスタンスだったんですけど、ツバメコーヒーで自分を出していくことができた。治療作業みたいなものです。

コーヒーにはそんな効用もある。少なくとも、田中さんには、確かに効いた。

田中さんのコーヒー
かっこつけなくても大丈夫。田中さんのコーヒーには、そんな想いが詰まっているような詰まってないような。どっちだろう?

ツバメコーヒーが徐々に知られていくことと、自分がかっこつけるというのは反比例の関係で。今は、あるがままでいいんじゃない、ということが、やっと、すとんと腹に落ちている感じっていうんですかね。かっこつけるというのは、凡庸な精神が根底にあるからですよね。きわめて凡庸な自分を自覚しているから、そうでない、違う自分になりたい。かっこつけざるを得ない自分って、かっこ悪い。だからといって別になんでもいいとは思わないですけど、あるがままでいい。ツバメだからツバメコーヒーとか。そういうニュートラルなものがいちばんかっこいいなって。

人に憶えられて、なんぼ。

ツバメコーヒーの外観
ツバメコーヒーの外観。基地っぽい。3分の2ほどのスペースは美容室であるPARIS RAVISSANTが占めている。

店名について、燕市にあるからツバメコーヒー、という由来はあまりにも明解ゆえに、それ以上になにか訊ねることはしなかったが、やっぱりそこにも田中さんなりの事情はある。

かつて田中さんには、名付けについての迷いがあった。それは、母が営んでいた「パリ美容室」という名について。

帰って来た僕は、やばい名前だ、ださいなと思っていたんですよね。でも、長いお客さんからは、パリさん、と呼ばれていたので、2006年に改装をしたとき「PARIS RAVISSANT(パリス ラヴィサント)」いう名前に変えちゃったんですよ。「RAVISSANT」はうっとりするという意味のフランス語の形容詞です。で、パリはパリス、英語読みに変えて。それには僕、後悔があるんです。僕の思い入れが強いということはあっても、説明する機会があればいいんですけど、そうでない人にとってはさっぱりわからない名前、何回聞いてもなんだっけって言われる名前なんですよ。でも、もう、付けたからには変えられない。それで僕、ああ、駄目だなと思ったんです。自分に思い入れがあって、いかに立派な意味があるとか、そんなのすごく自己満だなと。

店内の写真を撮らせてもらった晩夏は、書家・華雪さんの公開制作がここで行われた直後だったこともあり、喫茶室の壁のあちこちにその作品が飾られていた。

それから黒柴を飼ったとき、黒スケ、って名付けたんです。やっぱり人に憶えられてなんぼだし、そこに思いとかはいらない。店主がどう考えているかということを客に押し付けなくてもいい。その店がお客さんのものになるためには、わかりやすくてシンプルな名前がいちばんだと。

共存する場所=ツバメコーヒー
美容室で髪を切るというわざわざ感と、テイクアウトもオッケーなコーヒーを提供する空間というアバウトな感覚が、共存する場所=ツバメコーヒー。

コーヒーやるまでは、身体的なものが不足していたんです。概念的に考えるだけの世界にぷかぷか浮かんでたというか、溺れてたというか、そういう時代があったんですよね。自分は実行もしないくせに、分析をして、リスクをただ論っていくような、思考の限界をまず乗り越えてその世界の外部に行くっていうのが、僕にとっては300万円で焙煎機を買うという行為だったんだなと思っています。

ツバメコーヒーSTAND
2017年の冬、ツバメコーヒーは燕市を飛び出し、2店舗目となるツバメコーヒーSTANDを新潟市にオープンした。
店はテナントビルの2階
店はテナントビルの2階にあって、隣はやっぱり美容室。PARIS RAVISSANTじゃないけれど、コーヒーの往来もある。

店舗情報店舗情報

ツバメコーヒー STAND
  • 【住所】新潟県新潟市中央区万代1-2-13 コスモ万代ビル2階
  • 【電話番号】
  • 【営業時間】11:00〜18:00
  • 【定休日】月曜、火曜
  • 【アクセス】JR「新潟駅」より10分

考えないで体が先取りして動いていくようなかたちで動いている、没頭している時間みたいなものは、ただ考えている時間とは全然違うものだし、そういうものが、かつて考えていたこととか、得た知識を攪拌する、活性化してくれる。考えることと体を動かすことのバランスが、ああ、両輪なんだなと、身体を通じて理解できる。いかにやることが膨大にあろうとも、なにをやればいいかわからないことのほうが、よっぽどたいへんだってことです、ほんっとうに。いくら深夜まで焙煎しようが、これをやればいいんだってことがわかっててそこにあるってことの、自分の役割を得ることの、この確かさ、その有難さ。最低限の面積の自分の島、他者がつくったものではない島。自尊心という小さな小島ができて、自分の両足でそこに立っていられるので、ツバメコーヒーやってよかったなあ、と思いますね。

「ツバメコーヒー」のメタモルフォーゼ
『「ツバメコーヒー」のメタモルフォーゼ』、これにて終了です。ありがとうございました。

店舗情報店舗情報

ツバメコーヒー
  • 【住所】新潟県燕市吉田2760-1
  • 【電話番号】0256-77-8781
  • 【営業時間】11:00~18:00
  • 【定休日】月曜、火曜
  • 【アクセス】JR 越後線・弥彦線「吉田駅」より12分

文:木村衣有子 写真:当山礼子

木村 衣有子

木村 衣有子 (文筆家)

1975年、栃木生まれ。主な守備範囲は食文化と書評です。「木村半次郎商店」主宰。近著は食書評エッセイ集『味見したい本』(ちくま文庫)。埼玉西武ライオンズファン。